鈍色の空はアオ色に
妻と結婚して、10年になる。
現在、妻と3歳の一人娘、亜美との3人暮らしだ。
よく、女は結婚したら変わる、女は子供を産んだら変わると言われているが、俺はそんなことを一切信用しなかった。
信頼を持っていたからだ。
あの明るくて人懐っこくて、当時俺のことをしつこく好いていた妻に限って、そんなことは無いと踏んでいた。
だから、そんな妻が、こんなにも醜くなるだなんて、考えもしていなかった。
何とか希望を持って、妻の気を乱さないように振舞っていた自分が馬鹿らしく思えてくるぐらいに、妻は感情の灯りを落としたような態度で俺のことを扱う。
それは正しく、強い光が影をなおさら濃くしてくかのように。
「触らないでよ!」
妻と一緒に寝ている、亜美の髪を撫でようとした俺の手は、鋭い手刀によって叩かれた。
どうしてだよ。2人の子供じゃないか。
逆に、亜美はお前だけの娘なのか?
思い切って言ってやろうとするが、どうしても喉で詰まってしまう。
彼女だって、家事と子育てでストレスが溜まっているんだ、と思うしかなかった。
改めて、「女は結婚したら変わる」「女は子供を産んだら変わる」という言葉を思い出す。
俺は、どうしてもその言葉を信じたくはなかった。
妻とは中学で出会ってから約20年も経つ長い付き合いになる。
ほとんど、人生の半分を一緒に過ごしてきているかけがえのない伴侶だからだ。
学生時代、彼女の一方的なアプローチに一時期嫌気はさしていたけれど、無邪気で天真爛漫な彼女に、自然と俺も惹かれていった。
ハッとして我に返る。
そんな思い出に未だに縋っているなんてみっともない。
頭をリセットしたはずなのに、甘えた言葉を呟くかつての彼女の姿が脳裏から離れない。
なのに。
「ちょっと! 亜美のためにも荷物片付けてよ!」
「ご、ごめん……」
「何でそんなに子供のことを考えられないの?」
現実はなかなか厳しいものである。
考えてるよ。お前だけの亜美じゃないんだよ。
またしても言葉が詰まる。
お前は亜美の母親であるけど、その上で俺の配偶者でもあるんだよ。
親としての権利は、平等ではないのだろうか……?
またしても、妻への思いはますますどす黒くなっていく。
それはまた、灰色の、乾燥した色でもある。
あの頃の青春はもう、どこにもない。ただ、液体コンクリートのような、鈍色の沼に堕ちていくように感じる。
来月の12月1日に2人は結婚10周年を迎えるが、妻が結婚記念日を覚えているかでさえ心配になってくる。
心配する必要は、あるのか。
俺のことを背景だと思っているかのように、むごい扱いをしてくる妻を、心配する必要などあるのだろうか。
俺の心は、暗闇の中の水紋が音を立てず広がるように、ゆっくりと悪に染まっていく。
それは憎らしいことに、不可逆な色なのだ。
醜い妻も、可憐な表情で添い寝する亜美でさえも、憎らしく思えてくる。
進んでは行けないと分かっているのに、俺の心は一縷の光もない暗闇に引きずり込まれていく。
小学生の頃の、いたずらをする前の緊張感とはわけが違う。
「ちょっと! 何? 亜美に変なことしないでよ……!?」
そこまで言われて気が付いた俺は、いつの間にか両手で亜美の首を撫でていた。
畜生、何をしているんだ、俺は。
俺は一体誰に嫉妬しているんだ。相手はかけがえのない一人の娘だ。
俺はいたたまれなくなって、すぐに家を飛び出した。
妻や亜美には不審に思われたかもしれない。だが、もはや帰らなくなる可能性すらある家のことを今更考えている暇はなかった。
俺は無心で実家に向かった。
辺りは暗くなり始め、空はどんよりとした灰色を見せていた。
厚い雲が何層も連なり、重々しいような、不穏な暗さがある。
1時間くらいで実家に着いた。
汗だくで帰ってきた俺を見て、母は驚きと心配の混ざったような表情を見せた。
そのまま泣き崩れるかのように玄関に座り込み、ありのままを話した。
「なるほどねえ。確かに、女の子は家事も育児も大変でね、特にあんたを育てるときとかは、あたしはストレスで精一杯だったよ。お父さんには申し訳ないけど」
「母さん……」
「でもね、よく聞いて。女の子は、本当は旦那のアクションを求めているのよ。そんな態度を取りながらも。あんた、普段、家事とか育児の手伝いをしてる? それの大変さ、分かってる? こういう時、仕事の大変さを妻は分かってない、って言いたくなるかもだけど、違うのよ」
「ど、どう違うの……?」
「家事や育児は夫でもやろうと思えばできるでしょう? 奥さんはね、あんたの仕事には何も手助けできないからこそ、家事と育児を一人で抱え込もうとしてるの。本当は手伝って欲しいのにね」
俺はその瞬間、苦しそうな顔で助けを求めている妻の姿が脳裏をよぎった。
「母さん、ありがとう。俺、家に戻って色々やってみる」
「しっかりサポートしてあげなよ」
俺は今まで、妻のSOSに気付いていなかったのだ。
もう今となっては望みを持たれていないかもしれない。
諦められてるかもしれない。
それでもほんの少しでも信用されたくて、俺の足は自然と前へ進んだ。
俺は今まで、家事や育児はしているつもりだった。
でもそれは、自分を満たすだけのものだったのだと今気付いた。
本当にすべきことは、妻と娘と、心から触れ合うことだったのだ。
家に着く頃には、さっきよりも汗が吹き出ていた。
先程脳裏をよぎった妻の顔がまた再生される。
異変の予兆である事には薄々勘づいていた。
ドアに手を掛けた所で違和感を感じた。
俺は確か、鍵を閉めずに家を飛び出してきたはずなのに、鍵が閉まっている。
すぐさま合鍵を取ってドアを開けた途端、亜美の泣き声が聞こえた。
その異変に反応した俺は、寝室に駆け込んだ。
知らない男に、妻が口を抑えられていた。
俺がドアに鍵をかけないで出ていったばかりに――
「やめろーー!!」
侵入した男に飛びかかり、妻から手を引き離して投げ飛ばした。
手の震えが止まらない。本当に、こういう事って起こりうるのか、と現実を突き付けられた気分だった。
ただただ、本当に運が良かった。男は懐中電灯しか持っておらず、亜美の泣き声が収まらない上に、少しガタイが良かった俺が入ってきた所で諦めて、玄関から逃げた。
俺はその男を追うよりも先に、まず妻に駆け寄って謝った。
「本当にごめん! 俺のせいで!」
「良かった……、貴方が来てくれて」
「亜美も、勝手に居なくなって本当にごめん! しかも、俺のせいで強盗に入られて……全部俺のせいだ……!」
「パパ強かった! パパが居なかったらママがやられてたよ!」
亜美がまた泣きながらこちらに寄ってきた。
妻も俺も、恐怖と緊張から一気に解かれ大泣きした。
「改めて、今まで家事とか育児とかを、完全に任せっきりで本当にごめんなさい。実はさっき、実家に行ってお母さんに相談したんだけど、やっぱり今まで何もしてこなかった俺が悪い。だから、上手くできないこともあるかもだけど、是非手伝わせてほしい」
「もちろんよ。いつもありがとう」
その日、俺と妻と亜美は、3人で一緒に寝た。
亜美を真ん中に、夫婦で手を重ねて。
亜美のスヤスヤと眠る音が自然と聞こえてくる。
なるほどこんなにも、子供と一緒に寝るのは喜ばしいことなんだな。
その日は今までで1番気持ちよく眠ることができた夜だったと思う。
「はい、これ」
10周年の、結婚記念日の朝。
妻から突然プレゼントを貰った。
「偶然だね」
もちろん、俺も用意していたプレゼントを渡したら、妻がハグをしに来た。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
「仲が良いパパとママだーいすき!」
いつの間にか起きていた亜美が満足そうにこちらを見つめているのを、照れながらも微笑ましく見守る妻と俺であった。




