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炎の中へ  作者: 春日彩良
第4話【篝火(かがりび)】
9/85

(2)

 放課後の誰もいない教室で、長田さゆりは一人窓を開け、黒板消しをはたいていた。

 息を止めていても、細かいチョークの粉はさゆりの制服を汚し、口や鼻から進入して息を詰まらせる。


「ゲホッ、ゴホッ……伊藤のバカァ。日直の仕事、私だけにやらせてぇ」


 中学三年生にしては幼い舌たらずなしゃべり方で、さゆりは涙目になりながら不満を口にした。

 両手に黒板消しを持ったままクルリと窓から振りかえった時、さゆりは思わず「キャッ!」と悲鳴を上げ、黒板消しを取り落としそうになった。

 自分以外誰もいないと思っていた教室のドアのところに、長身の島貫隆志が一人たたずんで、こちらを見ていた。


「な、何よ、島貫。驚かさないでよ」


 さゆりは跳ね上がった鼓動を静めるように胸に手をやりながら、綺麗になった黒板消しで、もう一度白く汚れた黒板を拭きに戻った。


「忘れ物?みんなとっくに帰ったのかと思ったよ」


 試験期間に入ったので文化祭の準備もしばらく中断だった。

 特大の看板やポスターその他諸々の飾りも、今は教室の隅に邪魔にならないように立てかけられて、次の出番を待っていた。


「私ももう帰るよ。最近日が短くなってきて怖いんだもん。圭子も先帰っちゃうし……」


 さゆりは先ほどから何もしゃべらない隆志を不信に思い振り返った。 その時、自分のすぐ背後に迫っていた隆志に驚き、声にならない悲鳴を上げた。


「な、何!?」


 思わず身をすくめ黒板に張り付くさゆりの手から、隆志は無言で黒板消しを奪うと、さゆりの手の届かない黒板の高い位置にヒョイと手を伸ばして、拭き始めた。

 黒板の端から端までいとも簡単に拭き終ると、隆志はさゆりに黒板消しを返した。


「ほら」

「あ、ありがと」


 さゆりは唖然として隆志を見ていたが、再度汚れた黒板消しを持って窓辺に走った。


「……長田」

「はい!?」


 さゆりの素っ頓狂な声に、隆志も当のさゆり自身も驚いた。


「あ、ご、ごめん。何?」


 さゆりは頬を染めて、慌てて取り繕うように言った。隆志はさゆりの近くの机に腰掛け、じっとさゆりを見つめて言った。


「何か、隠してない?」

「何のこと?」

「斎木のこと」


 途端にさゆりは隆志に背を向けて、一心に黒板消しを叩くフリをした。


「何か知ってるんじゃないの?東京に行ったとき、何があったの?」

「し、知らないよ。前も言ったじゃない。理穂子には会えなかったって」


 うろたえるさゆりの横に回りこんで、隆志はさゆりの目を覗き込んだ。嘘は見逃さない。


「俺、見たんだよ」


 隆志の一言に、さゆりの手が止まった。恐る恐る隆志を振り返る。

 至近距離で、二人の目が合った。


「……どこで?」

「この街に、帰って来てるんじゃないの?」


 さゆりは、「まいった」という様にため息をついて、窓辺に寄りかかった。隆志もその横に並んで寄りかかる。


「理穂子がこの街に帰ってるかどうかは、今島貫が言うまで知らなかったよ。私が知ってるのは、東京の家から、理穂子がいなくなったっていうことだけ」

「いなくなった?」


 隆志の問いに、さゆりが神妙に頷く。


「夏休みの終わりに家を飛び出して、それっきり帰って来ないって。学校の友達の家も思い当たるところは全部探したけど、見つからないって。多分……ううん、置き手紙まであったから絶対……家出だから、世間体もあって、警察に届けることには理穂子のお祖父さんたちが反対してるらしいんだけど、もうそんなこと言ってられないって。おばさんは、すぐにでも捜索願を出す気でいるみたい」

「家出なんて……斎木が?信じられない」


 唖然とする隆志に、さゆりは首を横に振る。


「そうでもないんだよ。私の従兄弟が理穂子と同じ中学に通ってるんだけど、一学期の途中から、理穂子、ちょっとおかしかったって。学校も休みがちになって、成績もどんどん下がって……その子も、夜、街をウロウロしてる理穂子を何度か見たことがあるって」


 さゆりは口ごもって俯いたまま、小さな声で付け加えた。


「その……よくない、人たちと、ね」


 隆志は昨日の理穂子の、燃えるような赤に染められた髪を思い出していた。


「私や圭子の出す手紙にも、最近は返事も来なくなってたんだ」


 さゆりは、教室の隅に立てかけられた、小学校六年生の時に理穂子が描いたという今回の文化祭の特大ポスターの絵柄を見上げながら、哀しげに呟いた。


「……本当に、今どこでどうしているんだろう」


 隆志もさゆりに並んで、黙ったままポスターを見上げた。




 さゆりの「よくない人たち」という言葉だけを頼りに、隆志は何の当てもなく、街に一つしかない国鉄の駅の裏手に広がる繁華街――母が勤める店もその中にある――を歩いていた。

 母がここへ来るのを固く禁じていたことや、自分自身もこの歓楽街に対して母へのイメージと重なる生理的な嫌悪感を感じていたため、この年になるまで一度も足を踏み入れたことはなかった。

 日が暮れてきて、薄暗くなる周囲とは対象的に、夜の街に灯りがともる。

 制服姿の隆志はその場では酷く浮いている気がして、知らずに額から汗が噴出してくる。

 隆志が連想する「よくない人たち」はそこら中の路地という路地にうずくまり、たむろしていた。

 その時、ふいに斜めがけした布製の学校鞄を強い力で引っ張られ、隆志は薄暗い路地の一つに引きずりこまれた。


「ッ!!」


 隆志が声を上げる前に、白く柔らかい手が隆志の口を塞いだ。


「あらん?なーに、思ったより若いお兄ちゃんね」


 隆志の口を塞いだ女は、きつい香水の匂いをさせて、壁に押し付けた隆志の身体にピッタリと自分の身体を密着させた。


「お客……には、ならないわねぇ。でも、悪くない。好みの顔よ。お姉さんを楽しませてくれない?」


 女の手が隆志の身体を這い回る。隆志は恐怖で声も出せず、歯がガチガチと鳴るのを止められなかった。女の手はそんな隆志の反応を面白がって、より卑猥な動きを増していく。


「リエちゃん、止めろよ!」


 その時、路地に飛び込んで来た若い男が、女の肩を引いて隆志から引き離した。


「何よ!いいところで、邪魔しないでよ」


 女は憤慨して、若い男の破れたシーンズの脛に向かってピンヒールで蹴りを繰り出す。男は女の攻撃を器用に避けながら、女の肩を押さえつけて動きを封じた。


「アカリさんに言いつけて今度こそクビにしてもらうぞ!うちの店は売春宿じゃないって、アカリさんいっつも怒ってるだろ!」

「客じゃないわよ、よく見なさいよ。店は私の自由な男選びにも口出しするわけ!?」


 食って掛かる女の肩越しに、男は初めて、壁に張り付き蒼い顔をしている隆志に気がついた。目を細めて、隆志をジッと見る。きつくパンチを当てた髪、ボロボロの虎柄のスタジャン、細めるとますます険を増す目に、隆志は射すくめられて動けなかった。


「……中学生か?」


 男は女を振り返ると、思い切りよく、スコーンと女の頭を叩いた。


「犯罪だよ、リエちゃん!!」

「痛ーッ!! バカマサ!!」


 女も負けずに、男の急所を蹴り上げる。今度は不意打ちだったので男も防げず、まともに入った。


「……痛……いよ、リエ……ちゃん」


 男は声にならない声を絞り出すようにして、その場にうずくまった。


「ふん、いい気味!あんただって、店に中学生の女の子囲ってるじゃない。あんたが連れて来たの知ってるんだからね。人のことつべこべ言う資格なんかないんだから!」


 女は舌を突き出すと、そのままクルリと背を向けて、路地から出て行った。

 残された若い男は、痛みに悶絶しながらも、壁に手をつき何とか立ち上がった。


「……ったく、ガキに関わるとロクなことねぇんだから」


「あ、あの!」


 涙目でヨロヨロと路地を出て行こうとする男の背中に向かって、隆志は思いきって声をかけた。


「あ?」


 眉間に皺を寄せて、不機嫌に振り返る男。


「さっきの……中学生の女の子って」

「ちゅ、中学生じゃねぇぞ。若く見えるだけで、あ、高校……いや、短大出で……えーっと、あと、それに、別に店で働かせてるわけじゃねぇぞ」


 聞いてもいないのに、男は慌てて弁解するように言った。そんな男に、隆志は詰め寄った。


「俺、人を探してるんです。もしかしたら、その子かもしれない。会わせてくれませんか?お願いします!」

「え……いやぁ」

「お願いします!!」


 頭を下げて頼み込む隆志に、男は困ったように、パンチパーマの頭をボリボリ掻いた。



「ほら、ここだよ」


 男は隆志を小突いて、薄暗い地下のスナックへの階段を顎でしゃくった。

 薄ぼんやりした電飾で『スナック不知火』と書かれたそのスナックは、夜も更けたばかりだというのに、随分と賑わっている様子で、地下からお客たちの笑いざわめく声が漏れてきていた。


「ビビんなよ。来いって」


 先に階段を降り始めていた男は、初めてニカッと隆志に向かって笑顔を見せた。笑うと歯がほとんど溶けて無くなっていて、間の抜けたスキッ歯になっているのが分かった。しかし、それが男の険のある顔に、何ともいえない愛嬌を与えていた。

 隆志は思い切って、男の後についていった。

 地下のスナックのドアを開けた途端、中からは隆志の聴いたこともないような音楽(ジャズというのだと、隆志は随分後になってから知った)と、安い酒の匂いが漏れ出て、隆志を包んだ。


「マサ、随分可愛いの連れてるじゃない。また拾ってきたの?」

「人聞き悪いこと言うなよ。こいつは、そういうんじゃないの」


 馴染みであろう客の一人が、男のスタジャンの袖を掴んでからかう。 どさくさまぎれに、隆志の尻を掴んでピッと甲高い口笛を鳴らす者もいた。

 すかさず、マサが客の手をピシャリと撥ねる。


「はーい、お手を触れないで下さい。大事なお客様ですよー」

「いいじゃないの、ケーチ!」


 そう言って舌を出す男は、小指を立てて、琥珀色のウイスキーを飲み干した。


「アカリさん、ただいま」


 人ごみを掻き分けてカウンターまでたどり着くと、男は店の奥に向かって大声で呼びかけた。

 すると、中からかすりの着物に身を包み、黒々とした髪をアップにまとめた女が現れた。


「遅いわよ、マサ。リエは?」

「捕獲失敗」


 女は切れ長の瞳で男を睨みつける。凄みのある美しさだった。


「全く……あんまり勝手なことばっかりすると、クビにするって脅してやったんでしょうね」

「勿論だよ。怒らないでよ。リエちゃんは捕まえられなかったけど、代わりに面白いの拾ってきたよ」


 男は隆志の襟首を掴んで、女の前にズイッと押し出した。


「何なの?この子」


 女は怪訝な目で隆志を一瞥した。


「人探してるんだって。ウチのナナちゃんに逢いたいっていうから、連れてきた」

「ナナちゃん?」


 今度は隆志が怪訝な顔をする番だった。


「まあ、いいわ。マサ、とにかく早く着替えてらっしゃい。いつも言ってるけど、その格好で店ウロついたら、あんたもクビよ」

「ヘイヘイ」


 マサと呼ばれた男は軽く舌を出して、トレードマークのパンチパーマの頭をボリボリ掻くと、カウンターに片手をついて、ヒョイと飛び越えた。

 女とカウンターの中ですれ違う際、軽く女の尻にタッチして、さっきの客の真似をしてピッと高く短い口笛を吹く。


「真っ赤なスーツもいいけど、やっぱりアカリさんは和服が一番!今日もそそるねー」

「早く行きな!」


 女にすげなく手を叩かれて、男は店の奥に消えた。



「さて、と」


 女は両手を腰に当て、カウンター越しに隆志を見下ろして言った。


「ナナちゃんに会いたいっていうあんたは、ナニちゃん?」

「……島貫隆志」


 隆志はまるっきり子ども扱いする相手の態度に少々ムッとしながら答えた。

 女の目に一瞬奇妙な光が走る。

 だが、隆志には気付く術もなかった。


「立派なお名前」


 女が赤いルージュの薄い唇を、笑いの形に引く。


「会わせて下さい、そのナナって娘に。俺が探してる娘かもしれないんです」

「会わせてあげたいのは山々なんだけど、もしナナちゃんがお兄ちゃんの探してる女の子だったら、未成年の子を堂々と働かせてる私たちにも負い目があるわけ。そのリスクを考えたら、はいそうですか、と気安く差し出す訳にもいかないのよ。いつお兄ちゃんに警察駆け込まれるか分らないからねぇ。ねぇ、マサ?」


 奥から白いシャツと黒いベストに着替えた、先ほどの男が出てきた。


「……だそうだ。この店ではアカリさんの言うことが絶対なんだ。悪いな、諦めな」

「警察なんか駆け込みません。俺は、ただ、斎木に会えればいいんだ。お願いします!」


 隆志は思わず、カウンターの中に乗り出して、マサのシャツの襟元を掴んだ。


「おい!」


 マサの顔色が変わる。瞳に鋭い色が宿り、臨戦態勢を取る。

 隆志が一歩退いた。


「やるのか?」


 身構えるマサの予想に反して、隆志は二人の前で、いきなり床に手をつき土下座をした。

 必死の様子の隆志に、冗談めいていた二人も呆気にとられて顔を見合わせた。

 と同時に、カウンターの騒動に気がついた店中の客たちが、隆志たちのやり取りに注目しだした。


「いよっ!カッコいいぜ、兄ちゃん!」


 酒に酔った客の一人が、からかって声を上げる。それにつられるようにして、店の客たちが口々に好き勝手なことを叫んで隆志の後押しをし始めた。


「会わせてやれよ、アカリさん。純愛だぜ。泣かせるじゃねぇか」

「男が土下座だぜ!ここでイケズなことしたら、アカリ姉さんの女がすたるってもんだろう?」

「まったく、好き勝手なこと言ってくれるわね」


 女が苦笑する。


「……負けたよ、少年」


 カウンターの男も、構えを解き、オーバーに肩をすくめながら、スキッ歯を覗かせて笑った。老けて見えるが、本当は隆志とそう年の変わらない、まだ少年と呼べるような幼さが表情の端々に表れていた。


「わかったわよ。もうじき買出しから帰ってくるはずだから、ここで待ってなさい」

「そうこなっくっちゃ!アカリさん」


 客の輪から歓声が上がる。


「……ナナちゃんていう名前は?」


 騒ぐ客たちの声にかき消されないように、隆志が声を張り上げて尋ねる。二人は顔を見合わせて、クスッと笑いを漏らした。


「名無しの、ナナちゃん。私たちがつけたニックネーム」






 少女は息を切らせながら、両手に下げたスーパーのビニール袋を、こらえきれずに地下へ続く階段の手前で下ろした。

 大きく息をつき、額の汗を拭う。


「あっ!ナナちゃんだ!」


 その時、地下のスナックから出てきた客の一人が、階段の上にいる少女を見つけて声を上げた。

 男は既に出来上がっている様子で、危なげな足取りで階段を登ってくる。


「源さん、大丈夫?」


 見かねて少女が手を出すと、逆にその手を男にガッシリと捕らえられてしまった。


「ナナちゃんに面白いお客さんだよ。早く早く!おいでよ」

「私に、お客?」


 少女が怪訝な顔で問い返すのも構わず、男はグイグイと少女を地下の店へ引きずり込もうとする。


「ちょっと、源さん!荷物、荷物!」


 少女は地上に残されたスーパーの袋を振り返りながら賢明に訴えるが、男は聞く耳を持たない。男の吐く息からは、強い酒の匂いがして、少女は思わず顔をしかめた。


「ナナちゃんのご到着ー!」


 店の扉を開けるやいなや、男が大声を張り上げて、少女を店の中へ押し出した。


「な、何?!」


 店中の客の視線が、一斉に少女に注がれる。

 次の瞬間、まるで『十戒』でモーゼが海を割ったように、カウンターまでの人垣が一斉に割れた。


「なっ!?」


 その先に現れたものに、少女は思わず声を上げた。

 そこには、自分と同じように驚いた顔で立ち尽くす、長身の少年がいた。

 少女はそのまま、素早く踵を返した。

 ところが、その場から逃げ出そうとした少女に向かって、いくつもの腕が伸びてきて、少女を取り押さえた。


「待ってよ、ナナちゃん。あの兄ちゃん、ずっとナナちゃんのこと待ってたんだぜ」

「そーだよ、アカリさんに土下座までしてさぁ」

「離して!離してよ!」


 少女はもがきながら抵抗するが、どうにもならない。少年はその様子を呆然と見つめていたが、やがて我に返ると、ゆっくりと少女に近づいて行った。


「……斎木」


 少女は少年に背を向けたまま、ピクリと肩を震わせた。

 赤く染められた髪は、生まれつきの緩いウエーブがかかっていて、肩のところでフワフワと跳ねている。


「斎木」


 少年が少女の肩に手をかけた瞬間、少女は振り向きざまにピシャリと少年の腕を撥ねた。


「……何で、こんなところにいるのよ?」


 憎々しげに低く搾り出した少女の声に、少年もまた、今まで我慢していたものがプツッと切れた。


「それは、こっちのセリフだよ!」


 思わず少女の肩を掴み、声を荒げる。


「探したんだよ!長田が教えてくれた。東京の家、家出したって。皆が心配してるのに、こんなところで何やってるんだよ」

「関係ないでしょ!放っといてよ!」


 三年ぶりに再会した少女は、薄っすらと化粧を施し、明らかに店の女のお古であろうと思われる、サイズの合っていない派手なデザインのミニのワンピースに身を包んでいた。


「関係ないなら、何でウチの前にいたの?智之さんに会いに来たんじゃないの」


 少女の頬がカッと熱くなる。

 思わず振り上げた手が頬を狙う前に、少年は素早くその手を掴んだ。

 少女は歯を食いしばって逃れようとするが、少年はそれを許さない。 華奢な手首は折れてしまいそうなほど細かったが、一度掴んだ手は離すまいと少年は力を込めるのをやめなかった。


「こんな髪して、こんな化粧して……こんなの全然、斎木らしくない!」


 少女は掴まれた手首の痛みに顔をしかめながら、少年を見上げた。


「……私らしい?」


 少女の目が怒りでギラギラと輝く。


「私らしいって何よ、私の何を知ってるの?」

「知ってるよ!」


 少年も負けずに言い返す。


「クラスで一番可愛かったのを知ってる。みんなが斎木を好きだったのを知ってる。幸せでいっぱいだったのを知ってるよ!」


 それを奪ったのが、自分たち親子だってことも、よく知ってる。

 少女は呆気に取られたように、少年の顔を見た。


「でも、今は違う。こんなの、全然斎木に似合わない」


 そう言って、少女の赤い髪を指差す。


「すっごい、可愛くない!!」


 言った瞬間、自由な方の少女の左手が少年の右頬を強く打つ音が店中に響き渡った。

 クルッと向きを代え、店を飛び出していく少女を、今度は誰も止められなかった。



「……あっちゃあ」



 カウンターの中で様子を伺っていたマサが、人垣の中心で頬を腫らして立ち尽くす隆志に向かって言った。


「言っちゃいけない一言を言ったねぇ」


 マサは左手に持ったグラスを磨きながら、大げさに顔をしかめる。


「あれはマズイよ、お兄ちゃん。女の子に、すっごいブサイク!なんてさぁ」

「ブ、ブサイクなんて言ってないよ!」


 隆志がムキになって反論する。


「まあまあ、でもマサの言うとおり。あれじゃ逆効果。失敗したね、隆志君。まあ、いいわ。こっち来なさい。ほっぺた冷やしてあげるから」


 アカリの言葉に、隆志は素直にカウンターの席についた。アカリが氷水で冷やしたタオルを隆志の頬に当てる。


「痛っつ……」


 思い切り叩かれた反動で、口の中が少し切れていた。苦い鉄の味がする。


「さっき、面白いこと言ってたね」


 アカリはカウンターの中で客のために水割りの氷を砕きながら、痛みに顔を歪める隆志に言った。


「え?」

「……らしい、なんて一体誰が決めるの?」


 砕けた氷が、ガラスの器の中でカランッと音をたてた。



「人間がいかに『らしくない』行動する生き物か、面白い話をしてあげようか」

 

 アカリは客の水割りを作る手を止めずに話し出した。


「このお店の名前にもなってる「不知火」って何か知ってる?」

「……八代湾の海上に出る火の玉のことでしょ?」


 アカリがなぜこんな話をするのか理解できず、隆志は怪訝な顔で答えた。


「アカリさんは八代湾近くの漁港の出身なんだ。火の国、熊本の女だぜ。だから、情が深いんだ」

「あんたは余計なこと言わなくていいの。ほら、手が止まってるよ!」


 アカリにたしなめられて、マサは再びグラスを拭く手を動かし始めた。


「私は「不知火」を見ながら育ったの。父親が漁師でね。コノシロって魚を仕掛け網いっぱいに取って父が帰ってくるのが楽しみだった」

「コノシロは美味いんだぜぇ」とマサがまた横から話に割り込む。アカリは軽く無視して先を続けた。


「うちの漁港に、一人の若い漁師がいてね。誰よりも沢山のコノシロを取ってくる不知火海一の漁師だったけど、ものすごく堅物でね。他の漁師仲間たちが、海の男らしく港港に女をつくってる時も、彼だけは見向きもしないで、毎日毎日ひたすら海に出てはコノシロを捕ってた」


 先程まで賑わっていた店は今は落ち着きを取り戻し、マサがグラスを拭くキュッキュという音が、やけに澄んで響き渡っていた。


「真冬のある日、そんな漁港に季節はずれの観光客の女がやってきたの。名物の『不知火』は夏にならなきゃ見られないし、『不知火』以外にこれといった見所もない貧しい漁港よ。女が何をしにやってきたのかは分からない。でも、漁港の人みんなが言ってた。あいつは、女鬼だって」

「女鬼?」


 突拍子もない話が続き、隆志の困惑は深くなる。しかし、アカリは気にせず続けた。


「火の玉のこと、鬼火とも言うでしょう?夏の海上に青い光で現れて、漁民を惑わす不知火は、美しい畏怖の対象であると同時に、禍々しく恐ろしいものでもあったのよ。太平洋戦争の時は本当に「原因不明の戦闘機墜落事故」が相次いで、百戦錬磨の軍のパイロットたちも「魔の不知火海」と呼んで恐れていたっていう逸話もあったぐらいなのよ。あの女は本当にそんな『不知火』みたいな女だった。まだ8つだった私でも、はっきり覚えてる」


 アカリは当時を思い出すように目を細めた。しかし、それは過去を懐かしむ様な目ではなく、隆志には、辛い過去を直視することを躊躇う眼差しのように見えた。


「港中の男がその女に夢中になったわ。酒に酔った漁師同士が女を取り合って殺傷沙汰になったこともあった。死人こそ出なかったけどね。でも、そんな女に港中で一人だけ、見向きもしない男がいたの」

「……それが、さっきの漁師?」


 隆志の問いに、アカリが微笑んで頷く。


「そう。女の方が『らしくなく』躍起になってた。振り向かない男なんて、それまでの彼女には信じられなかったんでしょうね」


 アカリは出来上がった水割りを、隆志と自分を隔てているカウンターの上に置いた。マサがそれを横から受け取り、客へ運びに行く。


「でもね、その男も『らしくない』ことをしたの。堅物で縁起を担ぐ無骨な男だったから、普段だったら絶対に自分の船に女を乗せたりしなかった。仲間の一人がふざけて「お前は海の女神に愛されてるんだ。だから、一人だけそんなにコノシロが捕れるんだ」って言ってから、海の女神は嫉妬深いから、絶対に自分の船に女は乗せないって言ってね。でも、その日は女を乗せて船出したの。不知火が一列に並んで、青く燃える夜に」

「……それで?」


 アカリは寂しげに微笑むと、小さくかぶりを振った。


「それっきり。朝になって港に戻ってきたのは、女一人だけだったわ」



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