(14)
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
病室の外で待つ智之は、時計に目を落としながら、何度目になるか分からない溜息をついた。
少しの時間で――と約束したはずだが、理穂子を残してきた病室のドアは、先ほどからピクリとも動く気配を見せない。
昨日目覚めたばかりの理穂子の体調も心配だったが、何よりもその心が壊れてしまわないか、智之は不安でならなかった。
智之が刑事から聞かされた、あのにわかには信じがたい、あの日の出来事が本当なのだとしたら。
その時、ふいに病室のドアが開いた。
「……どうも、長い時間お付き合いいただき、ありがとうございました」
部屋から出てきた二人の男は、智之に向かって軽く会釈した。
「無理をさせてしまったようで、すみません。様子を見てあげてもらえますか?まだお聞きしたいことも残っていますが、今日のところはこれで失礼します」
そう言って再び頭を下げると、コツコツと革靴の音をさせながら、病院の暗い廊下を去って行った。
二人の背中を見送ると、智之は病室の中に入った。
「理穂子――」
ベッドの上に身体を起こした彼女の影に向かって声をかける。
返事はない。
「理穂子」
側まで近づいた智之にも目を向けず、理穂子は俯いたまま肩を震わせていた。
「……大丈夫かい?」
手を伸ばして、その肩に触れようとしたその時、不意に理穂子が顔を上げた。
「……パパ、これは何?」
その目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「パパも、聞いたんでしょう?」
理穂子が言わんとしていることを理解している智之は、思わず返事に窮してしまう。
「パパなら、分かるはずよ。島貫君が、そんなことする人じゃないって……」
自由になる右手でシーツを握りしめながら、理穂子が絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……追いかけて、来てくれたんだね」
炎にまかれた後のことは、思い出せない。
だから、その場に彼が来たという確かな記憶はない。
(島貫が自供しました――あなたを強姦して、一緒に死ぬつもりだったと)
先ほどの、刑事の言葉が蘇る。
(振り向いてくれないあなたに自棄を起こしたのだと。子どもを巻き沿いにして、早川も苦しめたかったと、そう言っています)
理穂子の知る隆志の姿とかけ離れたその露悪的な証言に、理穂子は彼が自分のために何をしたのか、すべてを悟った。
「……島貫君じゃないの」
消え入るように小さく呟いたその声は、しかし、智之の耳に重い響きを持って落ちてきた。
「理穂子? お前、まさか……」
「……警察へ、連れて行って。パパ」
理穂子は智之の手を握り、涙に濡れた顔を上げた。
※
「島貫、面会だ」
膝の間に頭を埋め、拘置所の冷たい床に腰を下ろしていた隆志の元に、看守の硬い声が降ってきた。
いまさら、自分に面会を求めてくる者などいるのだろうか。
報道されてから、『不知火』のアカリたちが何度も面会を申し込んできたが、隆志は決して応じなかった。
「……誰、ですか? 面会は全部断って……」
「斉木智之」
看守が短く告げた名前に、隆志は顔を上げた。
「どうする?」
あの夜、地元の街で別れた時の智之の顔が蘇る。
電話に出ない理穂子に不安になり、長屋に駆け戻った自分を見送った智之とは、当然ながらあの夜以来、連絡を取っていない。
だが今、傷ついた理穂子の傍にいるのは間違いなく智之だろう。
智之を目の前にして、演技ができるか?――
だが、今の理穂子の様子が知りたい――
隆志は頭の中で目まぐるしく逡巡したのち、その誘いを受けるために立ち上がった。
「入れ」
面会室のドアを開けて、看守が背中を押す。
ガラスの向こうに、見慣れた男の顔を見つけた途端、隆志は思わず緩んで崩れ落ちてしまいそうになる心を立て直すために、唇を強く引き結んだ。
智之に表情を悟られないよう俯き、視線を落としたまま歩を進める。
智之の前まで来たとき、隆志はわざと乱暴に椅子に腰を下ろした。
その時だった――
「……島貫くん」
小さな、消え入るような声が、自分の名を呼んだ。
幻聴かと思った。
あまりに焦がれすぎて、そこにいるはずのない声の主を、自分の妄想が作り出したのではないかと。
だから、顔を上げた時、目の前にいる彼女を見ても、それが実在する彼女なのか、瞬時に判断できなかった。
理穂子はやせ細り、左半身を覆う包帯でも隠し切れない、まだ生々しい火傷の痕が覗いていた。
「……理穂子がどうしてもというから、連れてきたんだ」
隣に座る智之が、複雑な表情で口を開く。
「君に、話したいことがあるそうだよ」
そう言うと、勇気づけるように、そっと理穂子の背に手を回した。
「全部、聞いたよ」
理穂子は、隆志と自分を隔てるガラスに手を伸ばす。
「……遅くなって、ごめんね」
そう言って、笑みの形に結ぼうとした口元は上手くいかず、震えて歪む。
それは、火傷のせいばかりではなかった。
「ダメだよ、こんなこと」
うまく笑えない代わりに、細めた瞳の奥に潤んだ光が灯り、それはすぐに大粒の涙となって、理穂子の頬を濡らしていく。
「『わたしたち、共犯だね――』」
不意に零した理穂子の言葉に、隆志の肩がビクリと震える。
「私が言った言葉、覚えてる? あれは、小学校の時……授業参観の紙を、一緒に燃やしてくれたよね」
その言葉に、一瞬で隆志の脳裏には、幼いあの日の光景が鮮明に蘇ってきた。
(すごいね。焼却炉の中、見るのなんて初めて)
焼却炉の炎に照らされる、幼い理穂子の白い頬――
(……キレイだね。汚いものが燃えているのにね)
智之は先ほどから、理穂子の言葉を黙って聞いている。
理穂子と隆志の思い出は、自分が隆志の母である美華を愛した、あの苦い記憶とも繋がっていた。
「バカだね――島貫くん。あれで、十分だったのに」
ガラスに置かれた手が震え、涙が頬を伝って落ちても、理穂子は隆志に向かって微笑んで見せた。
「昔から、島貫くんの火は優しかったね」
理穂子の言葉に、隆志の鼓動が早くなる。
嫌な予感がして、隆志がガラス越しの理穂子の手に、自らのそれを重ねると、理穂子は泣き顔のまま、笑みを深くした。
「ありがとう」
隆志と手を合わせたまま、短く呟く。
「……ごめんね」
そう言うと、静かに手を下ろし、智之に視線を移した。
ガラス越しにでも、わずかに伝わっていた理穂子の温もりも、彼女と一緒に離れていく。
「斉木?」
隆志は思わず乗り出すように、自身と理穂子を隔てるガラスの壁を叩いた。
理穂子は智之に支えられながら、静かに席を立つ。
「斉木っ?!」
隆志も立ち上がるが、ガラスに阻まれ、それ以上彼女に近づくことは許されない。
「……行こう、理穂子」
智之に促され、理穂子は面会室の出口に向かって歩き始める。
「斉木っ! 斉木っ!」
叫びながらガラスを打ち付け続ける隆志に気付き、看守が慌てて部屋に入ってきた。
取り押さえられ、後ろ手に手錠をかけられる。
「斉木っ! 斉木ーーっ!!」
隆志は面会室を静かに出ていく理穂子の後ろ姿に向かって叫び続ける。
だが、理穂子は最後まで振り返ることはなかった――
※
君を焼く、業火の中に、僕も飛び込むことが出来たなら……
天を仰ぎ、どんなに苦悶の叫びをあげようと、その声は、僕の歓喜になったのに。
炎の中で身を焦がす君は、最後まで、一人燃え落ちることを選ぶんだね。
第9話「業火」完