(13)
※
「理穂子? 理穂子!」
閉じた瞼の裏に、眩しい陽の光が揺れる。
「気が付いたのかい? 理穂子!」
遠くの方から聞こえていた声は、光が強くなるに連れて、大きくハッキリと自分の名を呼んでいるのが分かった。
「……パパ?」
薄く目を開けると、自分を心配そうに覗き込んでいる、聞きなれた、優しい声の主と目が合った。
「理穂子っ!」
声の主――智之は叫ぶようにもう一度その名を呼ぶと、理穂子の頭上のナースコールに手を伸ばした。
「誰か来てください! 理穂子が目を覚ましました」
智之は掴んでいたナースコール手放すと、横たわる理穂子に顔を寄せた。
「大丈夫かい? 気分はどう?」
「……ここ……は?」
眩しさに目が思うように開けられず、目の前にある白い天井に、弱々しく視線をさまよわせながら尋ねる。
「病院だよ。酷い火傷をして……一ヶ月も眠ったままだったんだ。覚えていないかい?」
「……火傷?」
回らぬ頭で記憶を辿ろうとしたとき、身体の左半分が引き攣るような痛みを覚えた。
「斉木さんっ!」
その時、先ほどのナースコールで智之に呼ばれた看護師が、医師を連れて病室に駆け込んできた。
理穂子のベッドの周りが俄かに騒がしくなる。
「血圧図りますね」
ベッド脇に屈みこんだ看護師の頭越しに、何気なく病室の外へ視線を向けると、陰気な気配をまとった男が二人、こちらの様子を伺っているのが目に入った。
※
「よぉ、島貫。調子はどうだ?」
ほとんど眠ることも許されない取り調べの中で、若い刑事と後退で部屋の中に入ってきた中年の刑事は、パイプ椅子を引き寄せて、乱暴に隆志の目の前に陣取った。
「……立派なツラだな」
彼はそう言って皮肉気に笑うと、最初の取り調べの最中に、自ら手にしていた煙草の火に、隆志が自分から頬を押し付けたことによって出来た火傷の痕に向かって、顎をしゃくった。
「犯罪者の烙印、か」
そう呟いて鼻を鳴らすと、ポケットの中から何かを取り出し、先ほどから無言のままの隆志に向かって、無造作に机の上に放り投げた。
「……これ、何だか分かるか?」
カラン――と乾いた音を立てて転がったそれは、何の変哲もない小さなプラスチックのボタンだった。
縁の部分が、火にあぶられたように少し溶けて変形している。
彼の意図するところが分からず、怪訝な顔で見返す隆志に、刑事はあっさりと種明かしをする。
「お前が夏まで働いていた、新聞販売店の作業着のボタンだよ」
刑事は親指と人差し指で再びその小さなボタンを摘まむと、隆志の目の前にかざして見せた。
「どこに、落ちていたと思う?」
それが本当に隆志の作業着のボタンだったとしても、そんな記憶などあるはずもなかった。
「今年の夏、斉木理穂子のアパートの裏手の空き地で、ボヤ騒ぎがあったな」
言われて、隆志は初めてハッとした。
それと同時に、いつかの理穂子のアパートの中に充満していた、腐った獣の肉の匂いと、腐敗したキャベツの残骸が広がる光景が鮮明に蘇ってきた。
酷暑の中で放置され、死んでしまったウサギのルルを送るための火――そう言いながら、一緒に逝こうとしていた理穂子を必死になって止めたあの日。
それは理穂子が、自身の中に宿した二つ目の命を失った日でもあった。
「あれも、お前の仕業だな?」
理穂子を背負い、火の中を駆け抜け、病院に担ぎ込んだ。
その時に、作業着のボタンが外れて落ちていたのだとしても、そんなことに気付く余裕などなかった。
「お前は……火に憑りつかれているんだな」
蔑んだ――しかし、わずかに憐れみのこもった刑事の言葉に、隆志は思わず自嘲の笑みを漏らした。
ボタンを落としたのは全くの偶然だったが、意図せずとも、自分が火に狂った人間であり、今回の事件も、起こるべくして起こったというシナリオに、より真実味を加えることになったのだから。
※
水を飲みたいという理穂子を助けて、その背に手を添え、傷ついた身体を支えていた智之は、病室をノックする音に振り返った。
「はい」
短く返事を返すと、小さく開いたドアの隙間から、男が二人顔を覗かせた。
「体調はいかがですか?」
気遣うような口調ながらも、その目は冷淡に理穂子を観察しているようで、それが、目を覚ました日に、ドアの向こうでこちらを伺っていた男たちと同じであることに、理穂子は気が付いた。
「よければ、少しお話をうかがえませんかね」
部屋の中へ一歩踏み込みながらそう告げる男に、智之は眉根を寄せた。
「今からですか? 娘は先日、やっと目を覚ましたばかりなんですよ」
「もちろん、それは重々承知していますよ。ですから、時間は取らせません」
そう言うと、智之が止める間もなく、理穂子のベッドの脇までやってきた。
「……パパ」
不安げに智之のシャツの裾を引く理穂子の手を、智之はギュッと握り返す。
「斉木理穂子さん――ですね。我々は、○〇署刑事課の者です」
そう言うと、理穂子に向かって、軽く警察手帳をかざして見せた。
「あの日あったことについて、二三、お話をうかがいたいのですが」
「……あの日?」
戸惑う理穂子に、別の刑事が畳みかける。
「島貫隆志をご存じですね?」
その名を聞いた瞬間、理穂子の目が大きく見開かれた。
それを見て、刑事の一人が、智之に向けて視線を送る。
「……少し、外していただけますか? お父様には聞かれたくない内容も含まれているでしょうから」
「でもっ!」
「……パパ」
刑事に向かって言い募ろうとした智之に、理穂子は先ほどから握ったままだった手を引いて、それを静かに制した。
「私は、大丈夫だから」
その言葉を聞いても、なおも心配そうに理穂子と刑事を交互に見ていた智之だったが、やがて、諦めたように頷いた。
「部屋のすぐ前で待っているから。何かあったら、すぐに呼びなさい」
そう言って、理穂子たちを残し、病室の外へと出て行った。
「さて、どこからお話しましょうか?」
智之が部屋から出たのを確認すると、刑事二人は改めて理穂子に向き直った。
「あの日何があったのか――覚えていることを話してください」