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炎の中へ  作者: 春日彩良
第9話【業火(ごうか)】
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(11)

 ベビーベットを見つめたまま動けない理穂子の手を引っ張り、葵は嬉しそうに告げた。


「あのね、赤ちゃんのためのベッドなの。妹なんだって」


(性別を?――)

(女のお子さんでした)


 その時ふいに、記憶の隅でいつかの医者と隆志の会話が蘇ってきた。

 流産の処置後、ストレッチャーに乗せられて、意識も混濁していたのに、なぜかその言葉だけが、理穂子の心の片隅に落ちて消えなかった。


「葵ね、お世話できるよ。お姉さんだから」

「実も!」


 呆けたように動けない理穂子の手を両側からひっぱりながら、二人は張り合うようにはしゃぎ続ける。


 その時、リビングの電話が鳴った――


 再び心臓が跳ね上がり、理穂子は咄嗟に二人の手を振りほどいた。

 それと同時に、理穂子が止める間もなく、二人は電話口に向かって、我先にと走り出し、受話器を奪い合う様に電話に出た。


「あっ! パパァ!」


 葵が弾けるような歓声を上げる。


 帰ろう――

 こんなところに長く居ては、おかしくなってしまう――


 理穂子はリビングを横切り、先ほど椅子にかけておいた智之のコートに袖を通す。


「ううん、おばちゃんはいないよ。お昼に出かけて、帰ってこないの」


 自分に代われと、うるさくまとわりつく弟を避けながら、電話の向こうの早川に、葵は律義に説明をしている。


「でもね、理穂ちゃんが来てくれたんだよ! チャーハンも食べた」


 黙って玄関に向かいかけていた理穂子の歩みが止まる。

 足がすくんだように動かなくなって、背中を冷たい汗が流れた気がした。


 逃げなければ――

 今すぐこの場を後にして、二度と振り返らずに逃げなければ。


 そう心は警鐘を鳴らしているのに、身体は言うことを聞いてくれず、そこを一歩も動けずにいた。


「理穂ちゃーん! パパが代わってだって」


 理穂子はその声を振り切って、玄関に向かって走ろうと、動かない足に力を入れた。

 だがその時、葵の口から洩れた言葉に、理穂子の足は今度こそ、凍り付いたように動かなくなった。


「……ママ」


 受話器を持った葵もそれは同じで、そのまま声も発せず固まっている。

 受話器の向こうからは、不明瞭ながらもヒステリックに叫ぶ女の声が漏れていた。

 理穂子はゆっくりとリビングに戻る。

 葵は先ほどまでのはしゃいだ様子は影も形もなく、助けを求めるように、怯えた表情で理穂子を見上げた。

 実は先ほどから、姉の背中に張り付いて離れない。


「……理穂ちゃん」


 恐る恐る差し出した葵の受話器を、理穂子は息を止めたまま受け取る。

 耳につける前から、耳をつんざくような女の声が襲い掛かってきた。


『なんで、あんたがそこにいるのよっ! 留守中に家に上がり込むなんて、なんて女なのっ!』

『瑠璃、やめろ』


 後ろで、早川の慌てた声も聞こえてくる。


『子どもたちに何かしたら、ただじゃおかない! あんたは人殺しだもの。自分の子どもでさえ、お腹から掻き出して殺した、人殺しっ!』


 その言葉で、理穂子の思考が止まった。


(血が繋がらないとはいえ……自分の兄と。二人も殺しておいて、平気な顔をしていた鬼)

(人殺し。天罰が下ればいい――)


 いつかの瑠璃が自分を罵る声も一緒になって、理穂子を責め立てる。



 人殺し、人殺し、人殺し――

 天罰が、天罰が、天罰が――



「天罰が下るのは、あんたたちの方よ」


 理穂子は静かにそう呟くと、そのまま受話器を置いた。

 チンッ――と小さな音を立てて、早川夫妻と、この家を繋ぐ線が断ち切れた。


「理穂ちゃん?」


 受話器を置いた姿勢のまま動かない理穂子の背中に、葵と実が不安げに声をかける。


「……私は、人殺しなんだって」


 振り返らぬままに、理穂子は乾いた笑いをこぼす。


「二人も殺して、平気な顔をしていた鬼……なんだって」


 理穂子の肩が小刻みに揺れる。

 泣きながら零す笑いは、やがて大きな発作のように理穂子を襲った。


「アハハハハッ――じゃあ、もう何人殺しても同じだよね。鬼には違いないんだから」


 そう言って振り返った理穂子の、これまで見たこともない狂気を宿した表情に、二人は声も発せずに、その場に立ちすくむ。

 姉の背中に隠れた実は、ガタガタ震えながら、着替えたばかりの寝巻のズボンを濡らし、足元に小さな水たまりができた。


「私が鬼なら、あんたたちだって同じよ。私の子どもを、二人も殺させた」


 幼い二人を見つめたまま、理穂子は一段低い声で呟く。


「それを、天罰だって言うなら――あんたたちだって、その報いを受ければいい」


 そう言うと、二人の腕を掴み、子ども部屋の方へ無理やり引きずって行った。


「やだっ! 理穂ちゃん、怖いよっ」


 突然のことに、葵がパニックになったように泣きじゃくる。

 理穂子は掃き出し窓を開けて、ベランダに置いてあった灯油缶を掴んだ。

 石油ストーブ用に、いつもそこにそれを置いてあることはよく知っていた。


 理穂子は灯油缶の蓋を外すと、そのまま頭上に振りかぶり、真新しいベビーベッドに、その鼻をつく匂いを放つ液体を振りまいた。


「やめてっ! 理穂ちゃん、やめてっ!」


 すがりつく葵を振り払った拍子に、幼い二人にも灯油の雨が降り注ぐ。


「キャッ!」


 悲鳴を上げる葵――実は声も出せずに、姉にしがみついている。

 理穂子は構わず、ふたつめの灯油缶に手を伸ばす。

 中身をすべてぶちまけ終えたその時、コツンッ――と、着ていた智之のコートのポケットの上から、何かが手に触れた。

 手を入れて取り出せば、それは智之のライターだった。


 もはや恐怖で立ちすくみ、動けないでいる子どもたち二人をおいて、理穂子は子ども部屋に背を向ける。

 戸口のところで振り返り、奥にあるベビーベッドと、灯油に濡れた哀れな二人の幼子をもう一度視界に入れると、静かに智之のライターを擦った。


 小さな明かりが、理穂子の表情を無くした顔を照らし出す。


「……理穂ちゃん」


 か細い声で葵がつぶやくのと同時に、理穂子は手にした炎を、闇に向かって静かに放った。




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