(10)
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「わぁっ! 理穂ちゃん先生、本当に来てくれた!」
早川のマンションのインターホンを押すと、中から葵と実の二人が先を競うように飛び出してきた。開け放されたドアの向こうに広がる光景と嗅ぎなれた部屋の匂いに、理穂子は軽い眩暈を覚える。
そこに主はいないのに、いつも理穂子の胸を締め付けた、早川のムスクの香りまで混じっているようだった。
「入って、入って! ねえ、今日はお泊りしてくれるんでしょ」
理穂子が靴を脱いでいる間も、二人はまとわりつきながらはしゃいだ声を上げる。
「理穂ちゃん先生、僕ね、理穂ちゃん先生の絵描いたんだよ」
実はそう言うと、ポケットからクシャクシャになった自由帳の切れ端を出して、自慢げに理穂子に差し出した。
「上手になったね、実」
理穂子の力のない笑顔にも、実は満足そうで、理穂子が絵を受け取りコートのポケットにしまうのを、嬉しそうに眺めていた。
グゥ――
その時、ほぼ同時に、葵と実のお腹から大きな音が鳴り響いた。
理穂子は二人の顔を交互に見つめる。
「……お腹、空いてるの?」
時刻はもう、本来ならばとうに二人は寝ている時間帯だった。
まさかこんな時間まで、何も食べずにいたのか。
「おばちゃんが、ご飯置いてってくれなかったから」
葵が口を尖らせながら言う。
随分、いい加減なヘルパーを雇ったものだ。
理穂子はそのまま部屋に上がると、そのままキッチンへ向かった。手洗いを済ませて冷蔵庫を覗く。
「チャーハンでいい?」
中には大した食材は残っておらず、有り合わせで作れるとしたらそんなところだった。
クリスマスの夜に食べるにはお粗末なメニューだったが、それでも二人は大喜びだった。
着ていた智之のコートをリビングの椅子にかけると、理穂子はセーターの袖をまくって、二人の遅い夕食作りに取り掛かった。
「はい、どうぞ」
出来上がったチャーハンを食卓に並べると、葵も実もよほどお腹が空いていたのか、ガツガツと音が聞こえてきそうな勢いで食べ始めた。
日頃は甘やかし、わがままも許してきた早川家だったが、食事の作法にだけは厳しく、二人は年齢の割に美しい所作で食事をとることが出来ており、外出先ではそれを褒められることが常だった。
そんな二人を知っているだけに、理穂子はますます二人を不憫に感じた。
部屋の中も、理穂子が面倒を見ていた頃とは違い、掃除もいい加減で荒れている様子が見て取れた。
「理穂ちゃんは、食べないの?」
チャーハンをかきこんでいた葵が、ふと自分たちを見つめる理穂子に気付いて言った。
「お腹、空いてないの。気にしないで、もっと食べて。おかわりもあるよ」
昼から何も食べていないので、腹が空いていないと言えば噓になる。
だが、未だに理穂子の胸を詰まらせる主のいない部屋に上がり込んで、とても食事をとる気にはなれなかった。
二人の食事が終わると、葵に実も一緒に寝巻に着替えるよう言いつけて、理穂子は再びキッチンに戻り、洗い物に取り掛かった。
しっかり者の葵が、実に声をかけながら着替える様子を背中で聞きながら、手早く皿を洗っていく。
「理穂ちゃん! 実のオムツがないよ」
葵がリビングから声をあげる。理穂子は洗い物の手を止めずに言った。
「実はお兄さんパンツで平気でしょ?」
トイレトレーニングが順調だった実は、だいぶ前にオムツを卒業していたはずだった。そのことを理穂子はよく知っていた。実のトイレトレーニングをしたのは彼女自身だったのだから。
「夜はダメなんだよ。オネショしちゃうから」
葵のその言葉を聞いて、理穂子は蛇口をひねって止めた。
「いつから?」
「……ママが入院する、ちょっと前から」
リビングに戻り、赤い顔をして俯く実の側にしゃがみこむ。
大人たちの勝手な都合で、事実、こんな幼い子どもにも大きなストレスを与えているのか。
今更ながら、二人に申し訳なく、やりきれない気持ちになる。
理穂子は実の手を取って、優しく言った。
「隣の部屋のクローゼットに、余ってたのをしまった気がするよ。一緒に見てこよう」
その言葉に、隣の葵も頷いて実の肩を叩いた。
リビングと一続きになっている隣の部屋は、子ども部屋になっており、よくドアを開け放して、中で遊ぶ二人の様子を見ながら、理穂子は家事をこなしたものだった。
葵がドアを開けると、リビングとは違う、部屋の冷気が足元から上がってきた。葵は背伸びして、部屋の入口にある照明のスイッチを押した。
その瞬間、理穂子の胸がドクンッ――と大きな音を立てた。
急に明るくなった部屋の奥、南に面したバルコニーに繋がる掃き出し窓の前に、真新しいベビーベットが置かれていた。
ベッドは白いペンキで塗られ、可愛らしいベビーピンクの寝具で統一されていた。