(7)
『やっぱり! 本当に、理穂ちゃん先生だっ!』
理穂子の戸惑いなどお構いなしに、無邪気に歓喜の声が上がる。
『なんで急にいなくなっちゃったの? 私も実も、すごい寂しかったんだよ』
寂しかったんだよ! と姉の声に追随するように、弟の実の声も割って入る。
「……どうして、ここが?」
それだけ言うのが精いっぱいの理穂子に、葵は得意げに答えた。
『ママのバッグに入ってた紙を見たの。理穂ちゃんの“理”と“子”と電話番号が書いてあったから、もしかして、理穂ちゃん先生の電話番号かなと思ったの! 当たりだった!』
こんな時には葵の利発さが恨めしくなる。小学校で習ったばかりの漢字で読めるものだけを読んで、理穂子だと当たりをつけたのだ。
「……勝手に電話して、怒られるわよ」
平気だよーと、横から実の声がする。
『ねえ、理穂ちゃん先生、帰ってきてよ。また一緒に遊んでよ』
「あなたたち、どこからかけてるの?」
葵たちの問いかけには答えず、理穂子は声を落として尋ねる。
自分との醜聞が明るみに出てから、瑠璃は子どもたちを連れ、実家に帰ったと聞いている。だとすれば、今子どもたちはそこからかけていることになる。
『葵のおウチからだよ』
だが、葵はいとも簡単に無邪気にそう答える。
『ママが赤ちゃんを産む間、おウチに帰れることになったの。お世話してくれるおばさんは、意地悪で嫌い。パパやママの前ではしないけど、いなくなったら葵たちに意地悪する。理穂ちゃんと全然違うの。理穂ちゃんみたいに可愛くないし』
言いたい放題の葵にハラハラしながら、理穂子は声を落として尋ねる。
「お父さんは? いるんでしょ?」
『ううん。昨日からずっと病院』
理穂子の胸がズキンッと音を立てた。
自分とほぼ同時期の予定日だった瑠璃の出産がいよいよ近づいているのか。
『お酒飲んで、ママが転んじゃったの。それで、パパも一緒』
一瞬遠くなっていた電話の声が、再び理穂子の耳に戻ってくる。それと同時に、この期に及んでもなお、早川やその妻瑠璃に心を乱される自分を自覚し、今更ながら傷を抉られるようだった。
「もう、かけてこないで」
短くそう言うと、理穂子は受話器を耳から外した。
『待って理穂ちゃん! 理穂……』
ガチャン――
追いすがる葵と実を振り払うように、理穂子は強めに受話器を置き、二人の声を遮った。
「理穂子? どうかしたのかい」
その時、戻ってきていた智之が、電話の前で立ち尽くす理穂子に声をかけた。
「ううん、何でもないわ」
理穂子は智之に動揺した顔を見られないように目を伏せて、そのまま居間のほうへ踵を返した。
だが、電話はそれから毎日のようにかかってきた。
それは、どこかでまるでタイミングを計ってでもいるかのように、不思議なくらい、隆志や智之がいないわずかな時間や、在宅していても二人が電話に出られないような状況の中で理穂子を呼ぶことが常だった。
※
『ねえ、理穂ちゃん。お世話のおばさん酷いんだよ』
相手になどしなければいいのは分かっていても、産まれたときから何かと世話を焼いてきた義理の甥っ子姪っ子の、今の不憫な状況を無下にもできず、つい耳を傾けてしまう。葵の話の内容はいつも、世話係への不満と、理穂子に会いたいというものだった。
心を強く持っていないと、徐々に揺り動かされてしまいそうになる
『今日、実が火傷したのに、病院に連れて行ってくれないんだよ』
その言葉にハッとした瞬間、背後から手が伸びてきて、理穂子の受話器を奪った。
「誰だ、お前」
低く恫喝するように隆志が電話の向こうに声を落とすと、相手は一瞬沈黙を作った後、隣の理穂子にも聞こえるような甲高い歓声を上げた。
『ライダーのおじちゃんだっ!』
その言葉に、隆志の方が面食らった。
『なんで? なんで? おじちゃんも理穂ちゃんと一緒にいるの? 二人で帰って来てよ! ねえっ!』
隆志はそのまま、慌てて受話器を置いた。
「……斉木」
隆志に背中から包まれたような体勢の理穂子が、気まずそうに振り返る。
「電話……あいつらからだったの?」
理穂子が顔を俯けたまま小さく頷く。
「いつから?」
「……少し、前から」
「何度も?」
理穂子は頷く代わりに、隆志に詰められた狭い空間の中で、再び彼に背を向けた。
「……二人だけで、心細いみたい」
悪いことなどしていない筈なのに、この妙な罪悪感は何なのだろう。
「義理姉さんが入院して――ヘルパーの人も、良くないみたい」
まるで、必死に言い訳を探しているようだ。
「斉木」
「実がケガをしたみたい」
「斉木っ!」
堪らず、隆志は理穂子の肩を掴んで自分の方へ振り向かせた。
「何考えてるんだよっ!」
「別に……」
「ダメだからな! 絶対、行っちゃダメだ」
「……わ……私……」
そんなこと、考えていない――そう言うつもりだった。
それなのに、言葉が上手く紡げない。
肩に食い込む隆志の指の力に恐怖を感じたわけでも、珍しく大きな声を出す彼に怯えたわけでもない。
それなのに、急に不自由になった、この役立たずの唇は、隆志を安心させる言葉を吐いてくれない。
彼が望む言葉は、痛いほど理解しているというのに。
「斉木っ!」
肩を掴む隆志の指に一層に力が加わった瞬間、居間から智之が顔を出した。
「二人とも、どうしたんだい?」
隆志は慌てて理穂子を離すと、そのまま玄関を開けて出て行った。
「何かあったのかい?」
心配そうに見つめる智之に、理穂子は無理やり作った笑顔を返す。
「ちょっと、ケンカ……しちゃっただけ」
「ケンカ? お前たちが? どうして――」
智之は腑に落ちない様子でさらに問いかけようとしたが、理穂子は苦く笑ったままの表情で、それ以上何も答えなかった。