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炎の中へ  作者: 春日彩良
第9話【業火(ごうか)】
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(1)

 

 *


 幼い頃、火遊びの悪癖が抜けないと、手を焼いた母に、一週間ほど寺に預けられたことがある。

 その寺は、駅向こうの歓楽街を更に抜けた侘しい雑木林の中に、忘れられたように立っていた。

住職は何代も前にとうに寺を捨て、ある日フラリと訪れた今の住職が住み着くまで、完全な空家と化しており、浮浪者が住み着いてからでは治安上もよくないからと、取り壊される寸前だったと母から聞いていた。

 その寺に預けられた頃、俺はまだ小学校に上がるか上がらないかの年齢だったと記憶している。

 何度目かの火遊びが見つかり、母にこっぴどく叱られ、そんなに悪い子なら、二度と火遊びなどする気持ちにならぬよう、とても怖い場所へ連れて行くと宣言されて、強引に手を引かれていった。

 怖くて怖くて、泣き喚いたのを覚えている。昼間でも薄暗いその境内から、ひょっこりと現れた住職に、泣いて抵抗する俺を無理やり押し付けると、母はさっさと背を向けて帰って行った。

 その住職は、とても不思議な男だった。

 泣きすぎて小便まで漏らした俺を着替えさせ、風呂に入れると、眠る俺の横で朝まで書を開いていた。

 枯れ木を思わせる骨ばった男の身体には、法衣は重そうに見えた。

 当時の俺に男の年齢など分かる筈もなかったが、水気がなく、不健康そうな顔色が男に老けた印象を与えているだけで、実際、丸い眼鏡の奥に覗くつぶらな瞳は、印象よりも男がずっと若い年齢であることを物語っていた。

 寺には住職一人だけ。檀家の数もたかがしれている田舎町では、昼間と言えど尋ね来る客もほとんどいなかった。


「隆志くん、ちょっとこちらへおいで」


 暇に飽かせた昼下がり、住職はよく俺を日の光が降り注ぐ縁側へ手招きした。


「これが、何か分かるかい?」


 住職が手にした絵本を覗きこんだ俺は、思わずギャッと後ろに飛びのいた。

 それは、赤と黒でおどろおどろしく描かれた、酷くグロテスクな化け物が蠢く絵に見えた。


「これは、生きている時に悪いことをした人間が、死んだ後に落とされる、『地獄』というところの絵だよ」


 恐ろしくて顔を背ける俺に、住職は構わず、まるで歌でも歌うように穏やかな声で説明を加えていく。


「生きていた時に犯した罪の重さで、地獄で受ける罰が変わってくる。ご覧……針の山の上を歩かされたり、ほら、こっちでは鬼に鉄の棒で打ちのめされている」


 逃げ出そうと腰を浮かしかけた俺に、住職は相変わらず穏やかな笑みを浮かべて言った。


「怖いかい?」


 俺は黙って頷いた。


「それでいいんだよ。その恐さを忘れないで」


 僧侶は静かに俺の頭を撫で、続きのページをめくった。

 そこには、地獄の火山口に集まった、まるで悪鬼のような顔をした半裸の人間たちが、苦悶の表情を浮かべながら、天を仰いで燃えている姿が描かれていた。


「ここは、消せない怒りの念を持ったまま死んだ人たちが集まる地獄だよ。彼らは自分たちの炎と化した念に、死んでも尚、焼かれ続けるんだ。肉体は朽ちないから、その苦しみは永遠に続く」


 数ある恐ろしげな地獄の絵の中で、なぜその一枚が俺の胸を打ったのか分からない。怖いもの見たさの心境も働いていたのだろうが、俺はずっとその絵から目が離せなかった。


「人間が背負う『業』は、昔からよく火に例えられてきてね」


『業』なんて言葉、君にはまだ難しいだろうけどね――

 そう言いながらも、僧侶はまるで対等な大人に話すように、年端も行かない俺相手に話を続ける。


「有名な日本の文学作品にも、似た話があるよ。当代随一と言われた絵師が、地獄の絵を完成させたいがために、娘が乗った牛車に火がかけられても、絵を描くことをやめなかった。これが、どういうことか分かるかい?」


 俺が首を横に振ると、僧侶は再び静かな笑みを浮かべた。


「強すぎる想いは、やがて自分自身の身を滅ぼすということさ」

「……それが、ゴウ?」


 僧侶は静かに頷いた。その目は俺を見ているようでいて、その実、彼の記憶の奥深くに眠る景色を見つめているようだった。

 彼が手を伸ばし、俺の頭を撫でる。

 法衣から一瞬だけ覗いた彼の腕には、焼けただれ癒着した皮膚が、痛々しい傷跡を残していた。



「もう、懲りたんでしょうね? 二度と火遊びなんかしたら承知しないからね!」


 しばらくして、母が俺を引き取りに来た。来る時と同様、礼もそこそこに俺の腕を乱暴に引いて帰路に着く母に、僧侶の不思議な傷跡の話をした。

 母は鼻で笑い飛ばして、店の客の噂話だと前置きしてから、こんな話をしてくれた。

 僧侶はその昔、極道に身を置く男でありながら、由緒ある家柄の令嬢に身分違いの恋をした。男との結婚を猛反対した令嬢の親族から二人は引き離されそうになり、将来を嘆き無理心中を図ったという話だった。

 あの火傷の痕は、その時出来たものだという。

 以来僧侶は極道から足を洗い、仏門に入った。


「嘘か本当か知らないけどね。坊主のくせに、うちの店に出入りするような生臭野郎だから」


 口の悪い母はそう言いつつも、ほんの少し神妙な顔で言った。


「それでも、うちの店にはあいつみたいな生臭坊主でも、必要とする子たちがいるから」


 寂れた寺の裏には、おびただしい数の小さな地蔵が祀られ、最近供えられたばかりであろう、玩具やお菓子の類が置かれていた。


 ムリシンジュー――

 インテリヤクザ――


 母の口から零れ出たそれらの言葉を理解するには、当時の俺は幼すぎた。

 それでも、あの日寂しい寺の境内で、不思議な僧侶と二人で見た『地獄』の炎の絵は、いつまでも俺の記憶に残っていた。


***


 夜半過ぎ、冷え込んだ薄暗い病院の廊下で、隆志はハッと目を覚ました。

 いつの間に眠りこんでしまっていたのか。

 なぜ今更、あんな幼い日々のことを夢に見るのか。

 気づくと目の前の『処置室』の赤いランプは消え、ストレッチャーに乗せられた理穂子が出てきた。

 慌てて立ち上がり、駆け寄った隆志が覗きこんだ理穂子の顔は、完全に血の気を失っており、まるで死人のそれのようで、隆志は思わず背筋が寒くなった。


「……斎木」


 その時、春先に妊娠初期の理穂子を運び込んだ時に担当し、「君がお父さん?」と隆志に厳しい口調で詰め寄ったあの医師が、あの時よりも更に厳しい表情で隆志を睨みつけていた。


「あの時、あれほど無理をさせるなと言ったのに」


 苦々しい口調でつぶやく医師に、隆志は半ば答えの分かり切っている質問を弱々しく投げかける。


「……子どもは?」

「残念ですが」


 医師は厳しい表情のまま、顔を背けた。


「性別を?」


 知りたいか?――暗にそう尋ねる医師に、隆志は「教えてください」と頭を下げた。


「女のお子さんでした」


 ストレッチャーが動き出す。

 隆志はよろめくように後ろに一歩下がり、薄暗い廊下に一人取り残された。

 これ以上、自分に出来ることが何も思いつかなかった。



 廊下の向こうから、細く長い叫び声が聞こえてくる。

 麻酔が切れ、意識を取り戻したのだろう。


 理穂子が呼んでいる――


 そう思っても、隆志の足は思うように動かなかった。

 やっとの思いで理穂子の病室まで辿りつくと、理穂子は平坦になってしまった自分の腹を押さえ、身体を二つ折りにして泣きじゃくっていた。叫び声を聞いて駆けつけていた看護師たちが、入口に立ちつくす隆志に肩をぶつけながら、部屋になだれ込んでくる。


「早川さんっ! 落ち着いてください」

「私に泣く権利なんてないのよっ! 分かってた、分かってたのに……こんな小さな命、今度こそ、守ってやらなきゃならなかったのに」


――今度こそ


 取り乱して泣き喚く理穂子のその言葉が、隆志の胸をザワリと泡立たせる。


「先生を呼んで! 鎮静剤を早くっ!」


 ドンッと隆志の身体を押しのけるようにして、看護師が先ほどの医師を呼びに行った。

 駆け付けた医師によって鎮静剤を打たれると、理穂子は涙に頬を濡らしたまま、再び気を失うように深い眠りに落ちた。


「……ちょっと、話があります」


 修羅場を終えた病室の中、医師は若干呼吸を乱しながら、隆志を別室へ呼んだ。


「あなたが、お父さん?」


 医師は再度、この質問を繰り返した。

 何度尋ねられても、隆志の答えは同じだ。無言で深く頷き返す。


「奥さんは、堕胎経験がありますね。おそらく、十代の頃」

(今度こそ、守ってやらなきゃならなかったのに)


 先ほどの理穂子の、悲痛な叫び声が頭の中でこだまする。


「ご存じでしたか?」


 隆志は肯定も否定もできず、ただ作業着の薄汚れた上着の裾を強く握りしめた。


「その時にも、相当な無理を重ねた筈だ。今回の流産で、おそらくこれから先、お子さんを望むのは難しいでしょう」


 項垂れる隆志を憐れみの目で見つめてから、医師は立ち上がった。


「では、私はこれで」


 立ち去ろうとする医師の白衣が視界の隅で踊る。

 その一瞬に、隆志は咄嗟に手を伸ばした。


「待ってください!」


 白衣の裾を掴まれた医師は、驚いたような顔で隆志を振り返った。


「……娘の遺骨は……」

「きちんと手続きを取って、ご両親の元にお帰りいただきます。手厚く、供養してあげてください」

「……ありがとうございます」


 隆志は顔をあげられぬまま、深く頭を下げた。


 智之を呼ぼう。


 もうこのまま、黙って理穂子が落ちていく姿を見守り続けることは出来ない。

 身を焼く恋でも、理穂子がそれに囚われている内は、見守り続けようと思った。

 自分には、それしか術がないと思っていたから。

 だが、もう限界だった。

 焼け焦げて血を流し、最後の灰のひとかけらになるまで理穂子が自らの炎から脱せられないのなら、自分も火の中に飛び込もう。

 自分の全てを焼きつくしても、理穂子を業の炎から解き放とう。


 隆志は静かにそう決意した。



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