(3)
※
伊藤健吾は窓から身を乗り出し、次々と校舎の中に入ってくる親たちの顔を確認しては、あれは誰の親だ、これは誰の親だと騒いでいた。
今日の授業参観は、理科の実験だった。
親たちが実験室に入ってきて、後ろの方へ並び始めても健吾がまだ騒いでいたので、担任教師は大勢の親たちの前で健吾をたしなめた。
「このバカ!先生の言うこと聞いて、席に着きなさい!」
主人と二人で八百屋を経営する健吾の母親は、折角気合をいれてパーマを当ててきた髪を振り乱し、顔を真っ赤にして健吾の坊主頭に拳骨をくれた。
他の親たちから失笑が起こる。
健吾は拳固をくらったばかりの頭をさすりながら、しぶしぶ席についた。
席は教室の一番後ろ。
四人一組の班で、隆志も同じ組だった。
隆志は来るはずがない母のことを頭では分っていても、チラチラと後ろを振り返っては、本当に来ていないか確かめていた。
姿が見えなくてホッとする気持ちと裏腹に、心のどこかでは、他のクラスメイトの母親たちから聞いて、「何で教えてくれなかったのよ!」と怒りながら、ひょっこり現れるのではないか、と期待する自分もいた。
「おい、何ボーっとしてんだよ。手伝えよ」
隆志がソワソワしている間に、いつの間にか授業は始まっていたらしく、実験道具を手にした健吾が、隆志の足を軽く蹴飛ばした。
今日は「蒸留水の生成」をやることになっていた。
担任教師は予め決めておいた各班の当番を教卓の周囲に集めて、蒸留水生成に使うフラスコや、それを載せる金網などを順々に配っていった。
「火を使う実験だからな。くれぐれも慎重に。悪ふざけしながらやるんじゃないぞ」
担任教師は実験のやり方を一通り教えた後、生徒たちの気を引き締めて、実験に移るよう指示を出した。
「準備が出来た班から火をつけろ」
隆志たちの班も、既に実験の準備は終わっていて、後は机の中央に置いてあるマッチで、ガスバーナーに火をつけるだけだった。
「やろうぜ、健ちゃん」
班の一人が言った。
目立ちたがり屋の健吾の、何でも一番にやらねば気がすまずに不機嫌になる性格を知り尽くしている仲間は、当然初めにマッチを擦るのも、健吾の役目であろうと考えて、健吾を見ていた。
しかし、いつもだったら真っ先に「俺がやる!」と言い出しそうな健吾が、今日に限って大人しい。机の上のマッチ棒に、手を触れようともしない。
他の班はもう先に火をつけ始めている。
「健ちゃん?どうしたんだよ、早くやろうぜ」
焦れた仲間の一人が催促すると、健吾は怒ったように机の上のマッチ棒をひったくった。
「うるせぇな!今やろうと思ってたんだよ!」
健吾は班全員の顔を睨みつけると、震える手でマッチ箱の蓋を開けた。
「や、やるよ!見てろよ。何だよ、これぐらい」
ブツブツ言いながら、不慣れな手つきでマッチ棒の先端を箱の端に押し当てると、目をギュッとつぶって、マッチ棒を擦った。腰が完全に引けている。
ポキッ……
頼りない音がして、マッチ棒は二つに折れた。
「な、何だよ、これ。古くなってるんじゃないか?へ!も、もう一回」
もう一本取り出すと、今度も同じように目をつぶってマッチを擦った。今度は、シュッと短い音を立てて、マッチ棒は小さな火を噴いた。
「ヒッ!」
ところがその瞬間、マッチ棒を握っていた健吾は、手の中で命を持った火に驚いて、短い叫び声を上げると、マッチ棒ごと放り出してしまった。
「あっつ!」
健吾が放り出した火は、隣にいた隆志のトレーナーを焦がし、隆志の足元に落ちた。隆志は素早くそれを足で揉み消した。
「何やってるんだ、そこ!」
騒ぎに気がついた担任が隆志たちの席まで飛んできて、焦げた床の痕を見て言った。
「健ちゃんが、火落としちゃたんです」
班の一人がそっと報告した。他の班の子どもたちも、皆実験の手を止めて、様子を伺っている。
「……健ちゃん、マッチ怖いんじゃない?」
その時、ヒソヒソと耳打ちしあうクラスメイトの言葉にキッとして顔を上げた健吾は、声のした方を振り返って怒鳴った。
「怖いわけねぇだろ!」
「伊藤、いい加減にしろ!」
担任は、先ほど母親に殴られたばかりの健吾の頭に、もう一つ強烈な拳骨を食らわせた。
「火を使う実験だから、絶対にふざけるなって言っただろう!お前はもう実験する資格ない。廊下に立ってろ」
親の前ということがあっても、担任教師は躊躇することなく、健吾を廊下へ追いやった。健吾の母親は俯き、穴があったら入りたいという様子で小さくなっていた。
「さあ、実験の続きに戻るぞ。いいか、みんなもくれぐれも注意してやるように」
担任は何事もなかったかのように教卓へ戻ると、集中力の途切れた生徒たちに、もう一度気を引き締めて実験にあたるように促した。
「俺らもやろうか」
健吾がいなくなり3人だけになった隆志たちの班も、実験は進めなければならない。
「どうする?だれがやる?」
「俺は、いいよ。やだ」
「俺も……」
マッチの火を擦ることに及び腰になっている二人は、チラリと隆志の方を伺った。
「俺がやるよ」
「あ、本当に?頼むわ」
二人はホッとしたように顔を見合わせると、机の上に放置されたマッチ箱を、隆志の方へ押しやった。
隆志はマッチ箱を拾い上げると、いつものように慣れた手つきで、シュッといとも簡単に火をつけ、仲間の一人が空気の量を調整したガスバーナーの上に火をかざし、点火した。
「すげ……」
隆志たちのグループを見守っていた他のクラスメイトたちからも、思わず感嘆のため息が漏れた。
隆志の手つきはあまりにも熟達していて、何の無駄もない滑らかな動きだった。
「島貫君」
隣で実験していた女の子だけのグループに入っていた理穂子は、そっと隆志に声をかけた。
「私たちの班も、誰もマッチ怖くて擦れないの。やってくれないかな?」
「うん、いいよ」
隆志は頷き、理穂子たちの机に向かった。今度も同じように、優雅な動きでいとも簡単に火をつけた隆志に、同じグループにいたさゆりや圭子も目を丸くした。
「ちょっとぉ、意外だぁ」
「島貫って、勇気あるのね」
隆志は照れくさそうに頭をかくと、無言で自分のグループへ戻った。
顔を上げたとき、理穂子と目が合った。微笑む理穂子につられて、思わず照れ笑いがこぼれた。
廊下からは、健吾が涙目で、恨めしげに教室の中の様子を覗いていた。
隆志の帰宅の足取りは軽やかだった。
壊れかけたランドセルが、北風を受けて背中でパタパタと鳴っていたが、その音さえも、隆志の胸を小気味よく弾ませていた。
(島貫って勇気あるのね……)
(ちょっと、意外だわ……)
クラスメイトの囁く声と、同時に浮かぶ理穂子の笑顔。
「…へへ」
先ほどの授業参観での光景が自然に頭の中で何度も何度も繰り返し再現され、その度に思わず笑みがこぼれる。隆志は寒さで赤くなりすりむけた鼻の頭を、得意げに親指の腹でこすりあげた。
「ただいまー!!」
いつもより大きな声を張り上げ、心なしか胸を張り、長屋の扉を勢いよく開けた。
浮かれていたので、いつもは母の男がまだ家の中にいるかどうか確認するために必ず見る玄関先の靴の有無も、気づかずに母親のいる奥の部屋へと向かった。
「母ちゃん、聞いてよ、俺今日ね…」
ドンッ!!
その時、突然部屋から出てきた大きな身体に体当たりされ、隆志はもんどりうって後ろへ転がった。
「あ、ごめん。大丈夫かい?」
ぶつかった大きな身体の持ち主も突然の隆志との衝突に驚いた様子で、転がった隆志に向かって、手を差し伸べてきた。
「痛ぇな!」
痛む尻をさすりながら、抗議してやろうと相手を見上げた隆志の目の前を、一瞬鈍い光が横切った。
仕立てのよいシャツに、行儀よく並んだ二つのカフスボタン。
徐々に視線を上げていった隆志の目に、信じられない男の顔が飛び込んできた。
「……ナンで、あんたが?」
隆志は走っていた。
ただ闇雲に、息が切れてこのまま死んでしまっても構わないと思うほど、全力で走っていた。
気がつけば、また学校に逆戻りしていた。
もうすっかり日の暮れた、校舎の裏手の古びた焼却炉の前で、膝に手をつき、爆発しそうなほど鼓動を速めた胸を押さえながら、初めて息をついた。
「……見たんだ」
その時、誰もいないと思っていた焼却炉の裏から、小さな影が現れた。
隆志は息を切らせたまま顔を上げた。
「……知って、たの?」
小さな影はコクリと頷いた。暗くて表情は見えない。
「……いつから?いつから知ってたの?」
小さな影は今度は静かに首を横に振った。
「分らない。最近だよ。でも、ママも知ってる」
隆志は何が何だか分らなくなっていた。
酸素不足でクラクラする頭で視界が大きく歪み、思わずその場に崩れ落ちた。小さな影が駆け寄る。
「大丈夫?」
隆志は俯いたまま、吐き気を堪えるのに精一杯だった。
「授業参観のお知らせ…渡してたって、きっと二人は来なかったよ。パパの手帳覗いたの。毎週、木曜はあの人に会う日なんだよ」
「何で、何でこんなことっ!」
隆志は砂利だらけの地面を思い切り拳で殴りつけて叫んだ。
「…ゴメン、本当に…ゴメン」
「どうして、謝るの?」
小さな影は優しく首をかしげて言った。
「可笑しいよ、島貫君が悪いんじゃないのに」
小さな小指が、隆志の小指に絡められる。
「…共犯って、こういう意味だったの?」
隆志が問いかけると、影は寂しそうに小さく頷いた。
「今日はもう、火、見れないね」
影が焼却炉の方を振り向いて言う。今日はしっかりと南京錠がかけられていた。
「俺、持ってる」
隆志はポケットを探った。先ほどの実験であまったマッチ箱をこっそりくすねていたのだ。
絡めた小指を離し、小さな火を灯す。
目の前の影が、ほのかな輝きを持って、見慣れた理穂子の顔に変わる。
「……泣かないで」
理穂子はそっと、隆志の頬に手を伸ばした。理穂子に触れられて初めて、隆志は自分の頬が濡れていることに気がついた。
「斎木こそ」
隆志もお返しに、火を持っていない方の手で、理穂子の頬を拭った。
拭っても拭っても、効果はなかった。
二人は小さな灯火を囲んで、堰を切ったように、とめどもなく溢れる涙を、お互いに拭いあった。
「…島貫君」
やがて、理穂子は消え入るような声で小さく囁いた。
「私、この街を出て行くの。ママと二人で」
隆志の顔が不安に歪む。
「ごめんね、黙ってて。みんなには、まだ内緒なんだ」
理穂子は精一杯の笑顔を作ろうとするが、上手くはいかなかった。
小さな炎に照らされて金色に輝く涙の跡に、新たな涙がまた一筋、静かに零れ落ちた。
急行電車を待つ国鉄の駅は、卒業式を終えたばかりの六年生の子どもたちで溢れかえっていた。
「理穂子のバカ!こんな大事なことずっと黙ってて。もう友達やめてやる」
萩原圭子は、目を真っ赤に泣き腫らし、困ったように微笑む理穂子に食ってかかっていた。長田さゆりはその横で、もはや言葉も紡げないほど泣いている。他のクラスメイトもほぼ同様で、ワンワン泣きながら、理穂子を囲んでいた。
「ごめんね。圭子、さゆり。みんなありがとう。でも、絶対また遊びにくるから。中学の文化祭には呼んでよ、ね?」
「理穂子ー」
「理穂ちゃん、そろそろ時間よ」
「うん、ママ」
理穂子は母親に促され、伊藤健吾がしっかりと持っていた自分の荷物に手を伸ばした。
「伊藤君、ありがとう。私、もう行くね」
健吾は無言で、理穂子の鞄をムンズと掴んだ手を離さない。
「伊藤君?」
「ヤダ!」
「え?」
健吾は理穂子の鞄を大事に抱いたまま、イヤイヤをする子どものように身体を左右に振って理穂子に鞄を渡さなかった。
「健ちゃん、やめろよ!斎木に鞄渡してやれって」
見かねたクラスメイトの男子何人かが体格のよい健吾を羽交い絞めにして、何とか理穂子の鞄を放させた。
「嫌だよ!俺は、嫌だからな!転校なんて、認めないぞ!」
健吾はグッと歯を食いしばって涙を堪えながら、憎まれ口をたたいた。
「健ちゃん、いい加減にしろよ」
「…ありがとう、伊藤君」
理穂子は優しく微笑んで、母親の待つ電車に乗り込んだ。
「理穂子、理穂子!ちゃんと、手紙ちょうだいね。絶対、絶対、遊びにいくからね」
窓際の席についた理穂子の元に駆け寄って、女子たちは理穂子と窓越しに最後の別れをした。
「うん。みんな、私のこと忘れないでね」
トゥルルルルル……
発車のベルが鳴った。
「理穂子ぉ…」
列車から離れた圭子やさゆりが涙を流す横を、理穂子を乗せた列車は静かに滑り出す。
「斎木ッ!!」
その時、人垣の中を掻き分けて、息を切らせた隆志が突然飛び出してきた。
「島貫君?!」
驚いた理穂子が、走り始めた列車の窓から身を乗り出す。
「理穂ちゃん、危ないわ」
隣に座っていた母親が、慌てて理穂子の身体を引き戻した。
隆志は徐々にスピードを上げていく列車を追いかけて走りながら、一枚のボロボロになった紙切れをを差し出して叫んだ。
「卒業式までの約束!守ったから!」
理穂子の手にメモ用紙が渡ると同時に、隆志はプラットホームの終わりに取り付けられていた策に激突し、コンクリートのホームに転がった。
見送る列車の窓から顔を出した理穂子が、隆志の渡した紙の切れ端を高く挙げて、隆志に向かって大きく振っているのが見えた。
列車の中で、理穂子はそっと、隆志に手渡された紙切れを開いてみた。ボロボロになった紙は、見覚えのある自分のノートの切れ端だった。
紙の中央には、不器用な字でたった一言綴られていた。
『秘密は、守るから』
理穂子はボロボロの紙切れを胸に抱いて、隣で眠る母親に気づかれないよう声を殺して、そっと嗚咽を漏らした。
※
君がいなくなった灰色の街に残り、君と共有した秘密を一人抱えて生きる。
幼い僕には、耐え切れない程の孤独だった。
それでも、幸せにしか縁がないような君を、理不尽な哀しみに追いやった女の息子が受ける罰には、まだ足りなかったけれど。
でも、あの日君と囲んだ小さな灯火だけが、その日から僕の生きる糧になったんだ。
~第3話「灯火」<完>~