(14)
「斎木っ! お前、何して……」
理穂子の細い手首を掴んで振り向かせた隆志の前で、理穂子は力のない笑みを浮かべた。
「……そんな怖い顔しないで。ルルを送ってあげたいだけ。送り火の準備をしていたの」
そう告げる理穂子の白い手の中には、小さなライターが握られている。
隆志が理穂子の視線を追って足元へ視線を向けると、伸びた雑草の寝床に横たわらされた、半ば腐り落ちたウサギの死骸が目に入った。
その時だった。
隆志の視界の隅で、一瞬、草むらの影に何かが鈍色に輝くのが見えた。
その輝きに目を凝らすと、そこにはまるで生い茂る雑草に隠すかのように置かれた、灯油缶が見えた。
それは、ウサギ一羽の送り火と言うには、過ぎた量だった。
理穂子の細い指先が微かに震え、ライターを持ち直す。
「斎木っ!」
咄嗟に隆志は理穂子の手首を掴んだ。
「何考えてるの?! お前、一体……」
「離してっ! 一緒に逝かせてっ! ルルは私の家族だったの」
大きな目に涙をいっぱいに溜めて、理穂子はなけなしの力で隆志に抵抗を試みる。
「ふざけるなよっ! そんなこと、黙って見過ごせるわけないだろうっ!」
「嫌っ! 離して、お願いっ!」
激しく揉みあう内に、理穂子がバランスを崩してよろめいた。
その先に、鈍色に輝く灯油缶があった。
ゴンッ――
鈍い音がして、缶が倒れる。中から溢れ出した液体が、鼻をつく匂いを撒き散らした次の瞬間、隆志が奪いかけていたライターが着火したまま、灯油の海の中へ落下した。
ブワッ――
一瞬の内に、熱風が隆志と理穂子の頬を張った。
空き地はあっという間に、炎の海と化した。
未だ隆志に手首を取られたままの理穂子は、荒れ狂う炎の渦を見つめながら、動けずにいた。
隆志も、無意識に膝が笑い出すのを押さえることが出来なかった。
「火事だっ! 裏の空き地が燃えてるぞっ!」
事態に気付いた近所の住人たちが騒ぎ始める声が聞こえる。
「……っ」
その時、理穂子は不意に崩れ落ちるように地面に膝をついた。
「斎木?」
慌てて覗き込んだ隆志の前で、理穂子は額に脂汗を浮かべて、苦しげに息を継いでいた。
「斎木、どうしたんだよ? 具合悪いのか?」
その時、隆志の目に信じられない光景が飛び込んできた。
剥き出しの膝を土で汚し、小さく震える理穂子のスカートの裾から覗く白い内腿を、赤い血が一筋、汚していた。
「……」
目の前で起こっていることに、頭がついていかない。
病的なほどに白い理穂子の内腿と、毒々しい血の赤が、現実感を伴って隆志の頭に入ってこない。
「……っ」
うめき声にすらならない理穂子の強く短く吐き出す息に、隆志はようやく我に返った。
「しっかりしろよっ! 斎木」
隆志は理穂子の細い腕を取って自分の肩に回すと、そのまま理穂子の前に屈みこみ、理穂子を自分の汗で濡れた背中に凭れさせる。
「……すぐ、病院へ連れて行くから。もうちょっと、頑張れ!」
隆志はもう背中にしがみつく力さえない理穂子を、一気に背負い上げた。
その時、一張羅のように着ていた新聞販売店の作業着のズボンのボタンが弾けて、地面に落ちた。
背に感じる理穂子は、ふと振り返ると、そこに居ないのではないかと不安になるほど、あまりにも軽く儚かった。
隆志はグッと自分の唇を噛み締める。
唇を裂く痛みと、薄っすらと滲んだ血の味が、これが現実で、理穂子が確かに存在して自分の背にいることを証明してくれるような気がした。
隆志は理穂子を背負ったまま、炎の中を走り出す。
背に感じる理穂子の体温は夏だというのに、どんどん熱を失い冷たくなっていく。
「斎木……しっかりして。斎木っ!」
走りながら、必死に理穂子に語りかける。
ふと、美華のことが頭をよぎった。
もう、思い出すこともなかったのに。
高校三年の時、あまりにもあっけなく死んだ母。
一生を、母よりも女として生きた、あの薄情なほどに美しい女の姿を。
母の生前、女として生きる母には、自分は邪魔者だったとずっと思っていた。なぜ、要らない自分を産んだのだと、本気で恨んだこともある。
だが、母は自分が居たから、生きていたのだ。
奔放に、男を手玉に取って、美しさに寄りかかりながら、自在に生きていたと思っていた。だが、自分が居なかったら、母はきっと父の後を追っていただろう。自由な母を、この世に繋ぎ止めるものなど、自分以外には存在しなかったのだから。熊本で過ごした五年間の中で、隆志はそのことにようやく気がついた。
理穂子の中に、今宿っている命。
それが、美華にとっての隆志のように、理穂子を繋ぎとめてくれるものであればいい。
どこまでも闇の中へ、隆志の手の届かない場所へ、一人で墜ちていこうとする理穂子を、繋ぎとめてくれるものであれば。
「……ご……めんね」
炎が草木を焼く音に混じって、背中から消え入るような小さな声が聞こえてきた。
近所から集まってきた住人たちで、現場は既に騒然となっていた。
その雑踏を掻き分けながら、隆志は首を振って降りかかる火の粉を払うと、再び理穂子を背負いなおして、走るスピードを上げた。
*
君の中に宿った小さな命は、君にとって本当に憎しみと哀しみの塊でしかなかったの?
だって僕は、聞いてしまったから。
薄れゆく意識の中で、君が何度も詫びる声を。
彷徨える魂を導くという送火でさえ、君の行く先を照らすことは叶ぬのだと、小さな生命が僕に語りかける声が聞こえた気がした。
差し伸べる手を握り返す力もない君の欠片は、なす術もなく僕の背中を伝い、君の涙と共に零れて落ちた――
第8話「送火」完