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炎の中へ  作者: 春日彩良
第8話【送火(おくりび)】
68/85

(13)


(ウサギって、何で“一羽”って言うか知ってる?)


 人の都合など一切無視して、理穂子の誕生日に突然現れた早川は、悪戯をしかける少年のような顔で、理穂子のアパートの前に立っていた。

 手にした妙に大きなプレゼントの箱を理穂子に開けさせると、中でぬいぐるみのように蹲っていた子ウサギの姿に、思わず理穂子が感嘆の声を上げるのを、嬉しそうに眺めていた。

 その愛くるしい姿に早川へ浴びせる非難の言葉を一瞬忘れた理穂子に向かって、早川は唐突にこんな話を始めた。


(鶏肉以外の獣の肉を食べるのがご法度だった仏教の僧侶たちが、編み出した裏技さ。ウサギの耳を見て、『これは耳じゃない。羽根だ。だから、こいつは鳥なんだ。だから、食べていいんだ』ってさ。無茶な理由だろ? 飛べもしないのに)


 そう言って早川は、理穂子に胸に抱かれる子ウサギに手を伸ばした。


(このウサギは俺だよ、理穂子。飛べもしないのに、毎日早川グループのために、『飛べ』って言われてるウサギ)


 そのまま早川の手は、理穂子の首筋を上って、その頬に添えられる。


(だから、食べていいよ。いつか本当に飛べなくなる日が来たら。君が好きなあの童話のウサギみたいに、喜んで火の中に飛び込むから)



「あ……ああ……」



 言葉にならない呻き声が、理穂子の口から零れ落ちる。

 もう手のひらに乗るほど小さくもなく、半ば腐り落ちようとしているルルの身体を、掻き抱く。

 そうしている内にも、ドロリと解けた小さく哀れな獣の肉の欠片が、理穂子の腕をすり抜けて、床にボトリボトリと重い音を立てて零れ落ちていく。


「……ごめんね、こんなに長い間放っておいて」


(お前のためなら、喜んで火の中に飛び込むから)


 それが、全てを失わせたお前への、せめてもの代償だから。


 どこか恍惚とした暗い瞳でそう告げる早川に、理穂子は魅入られたように動けなくなっていた。

 そのままどちらともなく、吸い寄せられるように唇を寄せた瞬間、早川が「痛っ」と悲鳴を上げた。

 理穂子と早川の体の間に挟まれた子ウサギが、思い切り早川の指を噛んだのだ。


(……っ痛いな。仮にも主人に向かって、何だよお前)


 片目を細めて本気で痛そうにしている早川に、理穂子はなぜだか発作的に笑いが込み上げていた。


(ウサギに噛まれるなんて!)


 一度始まった笑いの発作はなかなか鎮まらない。


(何だよ、嬉しそうだな。理穂子)


 腕の中のウサギの背を撫でながら尚も笑いが止められない理穂子を見て、やがて早川もつられるように笑い出した。


(ひどいな、お前は)


 小さな獣を間に挟んで、つかの間陽だまりのアパートで笑い転げた思い出が、理穂子の胸に蘇った。

 あの時抱きしめた小さな命と、陽射しの中で少年のように笑う早川の記憶は、今手の中で腐り落ち悪臭を放っても尚、理穂子の脳裏から消え去ってはくれなかった。


「……ごめんね、ごめんね……」


 理穂子はただ腐ったその皮膚に頬を摺り寄せ、咽び泣くことしかできなかった。

 一体、何に対する謝罪であるのか、それさえも最早、理穂子の中では曖昧になっていた。



***



(島貫君の火は、いつも優しいね――)


 線香花火を見つめながら、そう呟いた理穂子。

隆志にとっての炎の記憶を辿ると、そこにはいつも理穂子がいた。


(ルルがね、お腹すいてるの――)


 アパートに背を向けながらも、なかなか離れがたくノロノロと歩いていた隆志の脳裏に、不意に葵と実、二人の幼い姉弟の声が蘇ってきた。

 そう言えば、あのウサギはどうしたのだろう。

 郵便受けの隙間から、キャベツを落としたのはもう何週間も前のことだ。

 この猛暑の中、閉め切られた室内で小さなあの獣はどうなったのだろう。

 その途端、胸騒ぎにザワリと皮膚が粟立った。

 隆志は踵を返し、何かに急かされるように理穂子のアパートへと駆け出した。



「……ッ」



 細く開いたドアの隙間に手を差し入れ、濃厚な闇を覗かせていた理穂子のアパートへ一歩踏み込んだ瞬間、隆志は言葉を失った。

 腐った獣の肉の匂い。

 床には、同じく腐敗したキャベツの残骸が無数に散らばっている。

 隆志は汗まみれのTシャツの胸元を引っ張って慌てて鼻と口に押し当てた。しかし、薄い布一枚では到底、この部屋の異様な空気から身を守ることは出来なかった。


「斎木っ! 斎木っ!」


 隆志はヌルつく床に土足のまま踏み込み、理穂子の姿を探す。

 部屋の奥はもっと、底なし沼のように深い闇と淀んだ空気に満ちていた。

 隆志には、まるで理穂子がその闇でできた沼に溺れているように感じた。

 だが、いくらその名を呼んでも、理穂子からの返事は無かった。


「……斎……」


 その時、締め切ったカーテンの隙間から、アパートの裏手の空き地が見えた。ジリジリと音を立てる切れかけた電球に照らされたそこは、子どもが遊び場にすらしないような、伸び放題になった雑草に覆われたただの荒地だった。

 その空き地に、まるで幽霊のように立ち尽くす、頼りない女の後ろ姿が見えた。

 その瞬間、隆志は弾かれたようにアパートを飛び出していた。



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