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炎の中へ  作者: 春日彩良
第8話【送火(おくりび)】
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(12)


「島貫君の火は、いつも優しいね」


 視線は儚く燃える火の珠に注いだまま、理穂子が呟く。


「……あったかい」


 パチパチと控えめに弾ける火の粉に手のひらをかざして、ホッと息を吐くように微笑む。


「あたたかい? 熱いの間違えじゃないの?」


 隆志がそう言うと、理穂子はほんの少し笑みを深くした。

 ポトリ……

 その時、静かな音を立てて、小さな炎の珠が地面に落ちた。


「……ここで、三人で暮らさないか?」


 訪れた宵闇に紛れた隆志の声に、理穂子が驚いたように顔を上げる。


「もう、あんなところに帰るなよ。アパートや仕事の後始末は、俺が何とでもするから。ここで、智之さんと俺と……暮らそうよ」


 隆志にとっては、プロポーズよりも勇気のいる、精一杯の言葉だった。

 だが、今言わなければ一生後悔する――そう思って勇気を振り絞った。

 膝の上で握った拳が、いつの間にかジットリと汗ばんでいる。理穂子はそんな隆志の拳の上に、白くヒンヤリとした自分の手をそっと重ねた。


「……ありがとう、島貫君」


 頼りなく思っていたガラス玉の目は、それでも確かな意思を秘めて、俯く隆志を覗き込むように見つめる。


「でも、一度戻らなきゃ。アパートも仕事のことも、ケジメをつけるためにも、自分で責任を取らなきゃね」

「でもっ!」

「心配しないで。すぐに、帰ってくるから」


 隆志を諭すように、理穂子は笑みを深める。


「……そしたらここで、一緒に暮らしてくれる?」


 その言葉に、隆志は何度も頷くことで気持ちを返した。本当は、胸がいっぱいで言葉にならなかった。


「……うん、斎木……うん」


 ようやくそれだけ呟くと、隆志は理穂子の白い手の甲に、自分の手のひらを重ねた。



***



「ここでいいよ、島貫君」


 数週間ぶりに戻って来た東京は、わずかの間に様変わりしているように見えた。隆志が理穂子の行方を追ってここを出た時には、朝夕の空気に僅かに初夏の匂いが感じられる程度だったが、今や宵の頃は完全に熱帯夜の様相を呈していた。

 理穂子は一人で大丈夫だと言ったが、隆志がそれを許さなかった。半ば強引に理穂子の後について、東京へ舞い戻った。

 智之を説得するのも骨の折れる作業だった。

 ようやく正気を取り戻したばかりだというのに、今東京へ戻ったらどうなるか分からない。

 智之が心配するのはもっともなことだった。

 だが、隆志が片時も離れないことを約束した上で、必ず戻ると誓った上で、最終的には渋々二人を送り出した。

 今、隆志と理穂子は彼女のアパートの下で立ち止まっていた。


「もう行って。島貫君も、ずっと私のために仕事休んでいたんでしょう? 辞めるにしても、きちんと話をして来なきゃ、クビになったら退職金も出ないよ」


 彼女にしては珍しい軽口まで言いながら、理穂子はそっと隆志の胸を押した。


「部屋の後片付けがすんだら連絡するよ。だから、今日はもう遅いし、行って」


 確かに、隆志と生まれ育ったあの街に帰り、智之も交えた三人で暮らすと約束してくれた理穂子だったが、隆志と付き合うと言ったわけではない。

 恋人でもない自分が、夜遅い時間から理穂子のアパートにあがるような真似は出来なかった。


「何かあったら、すぐ連絡してよ」


 理穂子は微笑んだまま頷く。


「絶対だよ」


 子どものように念を押す隆志に合わせて、理穂子も何度も力強く頷いてくれた。

 後ろ髪を引かれるような気持ちながら、隆志は理穂子のアパートを後にした。



***



 久々すぎる自分の城は、ドアを開けた途端に胸の悪くなるような臭気を漂わせた熱気が押し寄せてきた。

 慌てて壁に手を這わせて光源を探す。

 しかし、カチッカチッと何度かスイッチを押してみても、部屋に明かりが灯されることはなかった。


「……あ、そっか」


 そこで理穂子は初めて事態を理解する。

 ずっと高熱水費さえ支払っていなかったのだ。電気もガスも、とうの昔に止められているに決まっていた。

 暗闇と臭気に満ちた空間は異様で、そこが自分の部屋だと分かっていても、一瞬踏み込むのに躊躇した。

 だが理穂子はパンプスを脱ぎ、玄関の中に一歩踏み出した。


 ヌルリ……


 その瞬間、ストッキングの足が何とも深い極まりない感触とともに滑った。


「……な……何?」


 足の裏に手をやると、腐臭を放つ草の残骸のようなものが指先を汚した。

 理穂子は慌てて履いていたスカートの端でその手を拭うと、逃げるように更に一歩部屋の中に進んだ。

 その時だった。


「きゃっ!」


 悲鳴を上げて、理穂子が玄関先に倒れこむ。

 暗がりで道を塞いでいた『何か』につまづいたのだ。慌ててその『何か』を振り返った理穂子は、倒れこんだ姿勢のまま固まった。


「……え?」


 我が目を疑うように、闇の中に目を凝らす。


「……ルル?」


 やがて、闇に慣れてきた目がその『何か』の輪郭を徐々に浮かび上がらせて来た時、理穂子は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。


「……嘘……嘘でしょう?」


 四つんばいで這うような姿勢で、闇の中で最早物言わぬ物体と成り果てたかつての家族の元へ身を寄せる。

 白い毛糸玉のようだったその柔らかい毛並みに手を伸ばすと、腐った肉から溢れ出した粘液が理穂子の手のひらにまとわりついた。



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