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炎の中へ  作者: 春日彩良
第8話【送火(おくりび)】
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(11)




「……君が、責任を感じる必要は無いよ」


 理穂子と同じ部屋の、彼女から一番離れた対角線上の角に背中を預け、膝を抱えて蹲っていた隆志の頭を、帰宅した智之の柔らかく大きな手が撫でた。


「食事を取らせようとして、僕も何度も無理矢理口に詰め込んだりもしたけど、すぐに戻してしまってダメだった。見かねて、知り合いの医者にリンゲルを打ってもらってる。今はそうやって、ようやく命を繋いでる状態なんだ」


 そう会話を交わす二人の視線の先で、理穂子は一人縁側から宵闇に包まれていく長屋の前の荒れた庭先を見つめている。

 その日から隆志は長屋に泊まりこみ、仕事へ出かける智之を見送った後は、一日理穂子の傍をウロウロとしながら、身の回りの家事をこなした。

 例えその薄茶色の目に自分の姿が映っていないことが分かっていても、どんなに問いかけても返事が無いことが分かっていても、ただ傍にいられるだけで良かった。

 離れていた五年よりももっと、近い距離にいながらとてつもなく遠く感じた、この半年の東京での生活を思えば、ずっと隆志の心は満たされていた。



「隆志君、いいものをもらってきたよ」


 帰宅した智之が開口一番、嬉しそうに手荷物の中から取り出したものを見て、隆志はポカンと口を開けた。


「智之さん、それ……」

「うちの現場監督がお嬢さんのために買ったらしいんだけど、買いすぎて余ったからってお裾分け。夕飯の後、庭でどう? 君も久しぶりだろ、花火なんて」


 そう言う智之の顔は、少年のように無邪気に輝いている。

 様々な種類の花火が色とりどりに詰め込まれたビニール袋を掲げると、自慢げに隆志に向かって振ってみせた。


「智之さんて、時々すごいガキみたいだよね」

「そうかい? 君が大人っぽすぎるんだよ」


 靴を脱いできちんと玄関に揃えて並べると、智之は今や抜かされた長身の隆志の肩を叩いて、台所へ向かった。


 お、今日は湯豆腐か――


 隆志が作っておいた夕飯の材料を覗き込んだ智之の明るい声が、彼が消えた先の台所から響いてくる。そんな日常の何気ない音が、夕暮れ時の長屋の陰鬱な空気を払拭する。

 隆志も夕食の準備に取り掛かるべく、智之の後に続いて台所へ足を向けた。



「ほら、隆志君。どれがいい?」


 夕食の後、智之は宣言通りに縁側から庭先に降りて、花火の準備を始めた。傍らに置かれたバケツには、既に水が張られ、蚊取り線香の火が縁側で夏特有の香りを放って揺れている。


「何でもいいよ」


 いい大人の男が二人で庭先で花火をするという事実に、些か居たたまれなくなった隆志は、ぶっきらぼうに答える。

 すると智之は、中でも一番長くキラキラ輝く派手な包装を施された花火を隆志に手渡した。


「もう、いいからさっさとやって終わらせようよ」


 半ば、自棄になった隆志がそう言って、二人だけの花火大会が開催された。

 理穂子はいつもの縁側に座り、相変わらず呆けたように庭先を見つめている。

 二人が放つ小さな炎の明滅が、理穂子のガラス玉のような薄茶色の瞳にチラチラと揺れて映っている。

 無言で次々と花火の山を消化していくと、バケツの中は花火の残骸と火薬で茶色く汚れた水で溢れそうになった。


「一回、捨てて水を取り替えてくるよ」


 智之はそう言うと、バケツを掴んで突っかけていた下駄を脱いで家の中に上がった。

 もう残っているのは、線香花火の束だけだった。

 隆志は縁側に腰を下ろし、火薬の匂いと闇に漂う煙の残骸に目を向けた。

 久しぶりだろ?――智之は先ほどそう言ったが、隆志がこの家でこんな「正式な」花火をした経験は一度もない。

 いつでも美華の目を盗んで、美華の店のマッチをくすねては一人で火遊びに興じたことはあっても。

 だが隆志にとってはその火が、どんな花火よりも彼の心を癒し満たしてくれた。


「……しまぬき……く……ん」


 その時だった。

 幼い頃の炎の記憶に思いを馳せていた隆志の耳に、か細く、ともすれば風に掻き消えてしまいそうな声が、自分の名を呼んでいるのが聞こえた。

 驚いて振り返った視線の先には、人形のように佇む理穂子が、真っ直ぐに自分を見つめていた。


「……斎……木?」


 すぐには信じられなくて、隆志はまじまじとそのガラス玉の瞳を覗き込む。どんなに見つめても決して焦点の合わなかった目は、弱々しくも今はきちんと隆志の姿を捉えている。


「……花火、私もやりたいな」


 青白い頬を不器用に引きつらせるような笑顔だったが、理穂子は確かにそう言った。


「……本当に? 斎木……もう、大丈夫なの?」


 予想もしない事態に、隆志は唾を飲み込みながら、ようやくそれだけ言った。理穂子の不器用な笑みが深くなる。

 それは、肯定の合図のようだった。


「智之さんっ! 智之さんっ!」


 隆志は大慌てで下駄を脱ぎ捨てると、長屋の中に駆け込んで智之を呼んできた。

 隆志に負けず劣らず動転した様子の智之の前でも、理穂子は何ヶ月ぶりかに「正気」を取り戻した目で二人に笑みを向けた。





 最後に残った線香花火を片手に持って、縁側に腰かけた理穂子は首を傾げて炎の珠が弾ける様子を見つめている。

 隆志はその横で静かに、そんな理穂子を見守っていた。

 再び家の中へ引っ込んだ智之が、ここに帰って来てから理穂子を見てもらっていた町医者に連絡を入れている声が聞こえてくる。


「……覚えてる? 島貫君。いつかもこうやって、二人で花火をしたね」


 どこか作り物めいて見える磁器のような頬は、炎が映えてほんの少し血色を取り戻したように見える。


「島貫君が持ってたマッチで、花火を見せてくれた」


 理穂子は思い出すように、フフッと軽く肩を揺すって笑った。


「……ピンクのサンダルも貸してくれたね」


 そうだ。

 鼻緒の切れた下駄で足を痛めていた理穂子のために、隆志は家に舞い戻り、美華のサンダルを持ち出してきた。

 商売道具を勝手に拝借したために、後でバレた時、美華にこっぴどく怒られた。そのサンダルを智之が返しに来たことをきっかけにして、智之と美華の関係が始まってしまったのだから、皮肉と言えば皮肉だった。


「……パパのアパートで、煙草に火を着けてくれたのも島貫君だった」


 髪を染めてこの街に戻って来た、15歳の理穂子の姿が今のやつれた彼女の面影に重なる。

 美華との関係もとうに終焉を迎えた後、智之が一人で暮らすアパートに忍び込んで、二人で慣れない煙草を無理にふかした。

 あの時胸を満たした苦い紫煙の味が、不意に口内に蘇ったような気がした。



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