(10)
「……斎……木?」
乾いた喉の奥から搾り出すような声で、ようやくその名前を呼ぶ。
だが、華奢な背中はピクリとも反応を見せない。
「斎木!」
もう一度、今度は先ほどよりもハッキリとした口調で呼びかける。だが、その声が届いている様子は無かった。
「前に行って、顔を見せてあげてごらん」
智之が後ろで、隆志の背中を軽く押す。促されるまま、乾いた栗色の髪を目で追いながら、その身体の前に回りこんだ。
焦点の合っていない、髪と同じ栗色の瞳がそこにはあった。
目の前の隆志を通りすぎ、その視線はどこか遠くを見ている。
「斎木? 俺だよ」
意図せずとも震えてしまう声で、縋るように理穂子に呼びかける。
「随分探したんだよ。あのチビたちも心配して……」
話の途中で、隆志は不意に背筋が寒くなった。
理穂子の視線は先ほどから一度も隆志を捉えることなく、ただ表情を無くしたまま虚空を見つめている。
「……智之さん。斎木は一体……?」
「ここに帰って来た時から、ずっとこの調子なんだよ」
智之は視線を落として言った。
「話してくれないか? 東京で何があったのか」
隆志は痩せ衰えた理穂子の身体から、異常に張り出したように見える理穂子の腹部に目をやった。主の栄養分を、まるで全て吸い尽くそうとしているかのように見えるそれは、最早グロテスクにさえ思えた。
理穂子を悩ませる全ての元凶のように思えてきた時、隆志は咄嗟に畳に額を擦り付けるようにして、智之に土下座していた。
「俺の子です。俺に甲斐性がないから、斎木がこんなことに……」
だが智之は、静かに首を横に振った。
「僕にまで嘘は無しだよ、隆志君。君が本当に理穂子の相手だったら、理穂子はこんな風になったりしない」
浅はかな嘘を軽くいなされ、畳に擦り付けた額から頬にかけカッと熱が集まるのを隆志は感じた。
「……今日は早番だから、僕はもう出かけなきゃならない。理穂子をお願いしてもいいかい?」
畳から顔を上げた隆志に、智之は力なく微笑んで見せた。
「何もすることはないよ。理穂子は一日その調子だ。雨戸を開けてやったら、一人で縁側に座っている。残り物だけど、台所には今朝のご飯が少し残っているから、お腹がすいたら食べるといい」
じゃあ、よろしく頼むよ。
そう言って、智之は出て行った。
先ほど戸口のところで行き会ったのは、仕事へ行こうとしていた智之とかち合わせになったからだと今更気付く。
二人きり残された薄暗い長屋には、闇より思い沈黙が訪れた。
「……斎木」
居たたまれなくなった隆志が言葉を発した時、その音が思いの他大きくて、隆志は自分で自分の声に驚いた。
隆志は膝で畳を擦って、滑り込むように理穂子の顔を正面から覗き込む。
「斎木、腹減ってない?」
手を着いた理穂子が座る布団は、わずかに湿っているように感じた。
「ちょっと、待ってて」
隆志は返事がないことを承知の上で、勢いよく立ち上がった。
理穂子からの返答ははなから期待していないのに、こうして滑稽なほどに大きな動きで理穂子の視界に飛び込むのには訳がある。
このまま理穂子を放っておいたら、闇に同化してしまうのではないか。心地よい闇に囚われたまま、その華奢な身体は徐々に侵食され消えて無くなってしまうのではないか。理屈ではないそんな恐怖と焦りから、隆志は台所へ走りながらも、一人言のような理穂子への問いかけを止めなかった。
智之が家を出て行く間際に言った通り、余熱を残した電気釜の中には丁度軽く二膳程の白米が残っていた。
智之が買い足した一人暮らし様の小さな冷蔵庫を開けると、これもまた卵があつらえたように二つ、慎ましやかに並んでいた。
隆志は迷わずその二つを手に取り、まだ温かい湯気を上げる白米をご飯茶碗に盛ると、その上に生命力に溢れたような鮮やかな黄身を落とした。
(上手になったわねぇ)
その時不意に、耳元を甘い女の息と声が掠めた気がして、隆志は思わず首をすくめた。
(昔は上手に玉子割れなくてさ、玉子かけご飯を作る時は殻がいっぱい入ってたのに)
聞きなれたその声に、隆志は頭を振って左右に目を凝らす。
だが、当然長屋の中には理穂子と隆志の二人しかいる筈もない。再び静まり返った長屋の空気に、先ほどの奇異な体験が却ってありありと蘇る。
「……母さん?」
(まだ小さかったから、下手クソでさぁ。玉子上手に割れなくて、殻がいっぱい入ってたの。私、思わず怒っちゃって……あんたは、あんなに小さかったのにさ、一生懸命だったのに……あの時は、ごめんねぇ)
高校二年生の冬、隆志の母美華は、一酸化炭素中毒でこの家で死んだ。
最後に別れた朝、隆志が朝帰りの美華のために玉子かけご飯を作ってやった時、美華が不意に幼い日の隆志の姿を懐かしむようにしみじみとこう言ったのだった。
「……何だよ。あんなに好き勝手生きてた癖に、まだこの世に未練があるのかよ。成仏出来てないの? 母さん」
そう独り言のように呟くと、隆志は不意に可笑しくなってきた。
「だったら、仕事してくれよ。斎木を守ってやって……ろくな守護霊じゃなくても、いないよりマシだ」
何よ、母親に向かって失礼ね――
今にも、美華のそんな台詞が聞こえて来そうだった。
隆志は載せる盆もないまま、新鮮な玉子を落としたばかりのご飯二膳を持って、未だ暗い部屋の中で身じろぎもしない理穂子の元へと戻った。
「雨戸開けていい? もう朝だよ。体内時計が狂うと、腹も減らないって言うしさ」
返事のないことを承知しているから、理穂子の答えも待たずに雨戸を開ける。夏に近づきつつある朝の陽射しは、既に肌を焼く鋭さを帯びているが、几帳面な智之が縁側の上に庇を設けてくれていたお陰で、部屋の中に入り込んでくる光は優しかった。
「斎木、ほら」
隆志は理穂子の少し湿った手のひらの中に茶碗を握らせるが、その手に最早握力は残っていないようで、隆志が手を離した傍から、茶碗は理穂子の手から零れ落ち、理穂子の膝と畳を黄色く汚した。
「……ッ」
その直後、理穂子は異様に突き出た腹を二つに折り曲げるように前のめりになり、隆志の目の前で激しく嘔吐した。