(9)
『……はい、もしもし』
夜の帳の向こうで、柔らかく響く智之の声が聞こえる。
「……俺だけど」
短くそれだけ言った隆志の言葉に、受話器の向こうで息を飲む音が聞こえた。
『……隆志君?』
静かな、それでいて深い音色を持つ声は、学生の時の隆志を呼ぶ声と何も変わらない慈愛に満ちていて、隆志は思わず胸が熱くなった。
「智之さん、正直に答えて」
気を緩めれば、受話器を握り締めたまましゃくりあげて智之に全てを打ち明けてしまいそうになるのを堪えるために、隆志はわざと低い声で、感情を込めずに尋ねた。
「斎木は、街に帰ってるんじゃない?」
わずかな沈黙の後、智之が次の言葉を紡ぐために乾いた唇を湿らす微かな音が、受話器越しに聞こえて来た。
『何のことだい? 理穂子は君と一緒に東京にいるんじゃないのかい?』
「智之さん、今一人?」
『もちろんだよ。急にどうしたんだい、隆志君?』
挨拶もそこそこに問い詰めるような話し方をする隆志を咎める前に、智之は困惑しているようだった。
スマートな外見に反して、器用な男ではないことは昔から良く知っている。
彼が嘘をついているとも思えない。
だが、隆志には先ほど智之が一瞬紡いだ、不自然な沈黙が気になった。
「……何でもないよ。また、電話する」
『隆志君』
受話器を置こうとする隆志を、智之が止める。
「理穂子と、喧嘩でもしたのかい?」
本心から心配している様子が伝わってきた。
残念だけど、喧嘩が出来るような仲でもないんだよ、俺たち。
隆志は自嘲気味に心の中でそう呟くと、無言のまま受話器を置いた。
返事の代わりに響くツーツーという無機質な通話終了音を聞いてから、智之は静かに耳に当てた受話器を置いた。
そして、日に日に陽気を増す、最近の気候に合わせて開け放した縁側の向こうに目を向ける。
暗闇の中、ほの白く浮かんだ浴衣の背中は、自分が覚えている幼い頃の姿よりも更に小さく、弱々しく萎んでしまったように見える。
「……理穂子」
華奢な背中は暗闇を向いたまま、ピクリとも反応を示さない。
「……本当に、良かったの?」
答えのない娘に向かって、無駄と分かりつつも智之は声をかける。
青い匂いのする畳を踏んで、影に埋もれた縁側に降り立てば、呆けたように一心に暗闇だけを見つめている理穂子のこけた横顔が目に入る。
理穂子は一日の大半を、ここでこうして過ごしていた。
骨と皮ばかりのような身体に反して、僅かに膨らみを見せる下腹の存在が、智之が隆志を理穂子に引き合わせるのを躊躇わせる要因の一つでもあった。
隆志も理穂子も何も話さないので、智之には難しい選択に思えた。
***
半年前に五年ぶりにこの街に帰って来た時は、すぐに辿りついてしまうのが怖くて、自分でも滑稽だと思いながら、終電に乗っていたにも関らず、一つ前の駅で降りて一夜を明かした。
目覚める前の工場のシルエットに向かって歩きながら、灰色の街が徐々に朝焼けに包まれていく光景を眺めた。
あの時は、胸が詰まるような懐かしさに駆け出したい衝動を覚える一方で、どうしようもなく足取りが重くなった。
酷い言葉を投げつけて置き去りにした、隆志がこれまでの生涯でただ一人、心の底から愛した女性に会うのが怖かったからだ。
今も、あの時と変わらず、足は鉛を下げたように重く、隆志の意のままにならない。
だが、その足を引きずりながらも、隆志は恐怖より勝る胸騒ぎに突き動かされるように、灰色の街を目指した。
智之が一瞬の隙に見せたあの沈黙こそが、隆志をここまで誘う道標となっていた。
理穂子はきっと、この街にいる。
朝日を背景に佇む小さな長屋の一角に着くと、隆志は黄色く変色した紙に滲んだインクで『島貫』と書かれた表札の、横の引き戸に手をかけた。
そっと引こうとした瞬間、中からガラッと音を立てて引き戸が開いた。
驚いて、早朝の静かで張り詰めた空気の中、隆志は思わず叫び声を上げそうになったが、自分で自分の口を塞いで、ようやく思いとどまった。
それは、引き戸を開けた側も同じだったようで、戸口に佇む智之は「うわっ」と短く叫んだ後、大きく目を見開いて隆志を見た。
「……隆志君?」
「悪い、智之さん。連絡もしないで」
早朝なので周囲の長屋を気遣って声を潜めた隆志がそう言うと、智之はグイッと隆志の手を取って、長屋の中に導いた。
「ここは君の家だよ? 実家に帰ってくるのに、遠慮することなんか何もないよ」
相変わらずの智之の優しさに、隆志は胸がチリチリと痛くなった。
「わざと、連絡しないで来たんだ」
「え?」
「……斎木が、ここにいるんでしょ? 智之さん」
隆志の言葉に、智之は一瞬返す言葉を失った。
「電話の様子で分かった。俺が連絡したら、きっと斎木は逃げ出しちまう。だからわざと、何も言わずに来たんだ」
智之は、掴んだままになっていた隆志の手を、今になってようやく離した。
「……君に、嘘を付く気はなかったんだよ」
智之は申し訳なさそうに首を横に振った。
「だけど、今の理穂子を君に会わせていいのか分からなかった。理穂子は何も話さないから」
「……斎木は、どこ?」
智之は無言で、部屋の奥の暗がりに目を向けた。
まだ雨戸を開けていないせいで、部屋の中は未だに夜の帳が下りているようだった。
瑠璃が押しかけ、あの陽に荒らされたアパートで腹を抱えて蹲っていた理穂子の姿を思い出し、ここでは優しい闇が理穂子を守っているのだとほんの少し隆志は安堵した。
「……斎木に、会ってもいい?」
「ああ。でも、驚かないでくれよ」
「え?」
訝しがる隆志に、智之は無言で隆志の前に立って部屋の奥へと案内した。
「理穂子。隆志君が来てくれたぞ」
雨戸を閉め切った暗がりに向かって声をかける智之の背中越しに、隆志は目を疑う光景を見た。
立て付けの悪い引き戸の隙間から入る朝の陽射しが微かに浮かび上がらせたのは、信じられないほどに痩せ衰えた小さな背中を覆う、艶を失った栗色の髪だった。