(8)
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「お疲れ様」
年老いた新聞販売所の所長は、事務所の電話が置かれた灰色のデスクに突っ伏す隆志を、曲がった背中を更に曲げて覗き込むようにして声をかけた。
「お・つ・か・れ・さ・ま!」
今度は幾分声の調子を上げて、少しも反応を示さない隆志の耳元で同じ言葉を区切るようにハッキリと告げた。
そうしてようやく、隆志は顔を上げる。
「何か用事でもあるのかい? 最近ずっと変だよ」
「……いえ、別に」
隆志は瞳を覆い隠すほどに、長く伸ばしっぱなしになっている前髪をかきあげて答えた。
「配達が終わったんなら部屋へ戻りなさい」
「……すみません」
隆志はボリボリと頭を掻いてから、ノソリと立ち上がった。
「最近、非番の日でもそうしてるね」
ショボショボと眉間を揉みながら、訝しげな視線を投げてくる所長に、隆志は彼が言わんとしていることを理解した。
所長は隆志が何か良からぬことでも考えて、事務所の金でも盗むのでは無いか、そういった類のことを心配しているのだ。
確かに、ここ最近不審を招くような行動を取っている自分が悪い。だが、服もろくに買う金がなく、勤務の時も非番の時も支給された一張羅の販売店の制服を着込み、勤勉に努めている自分が、いつまでもそんな風な目で見られることに一抹の切なさを覚える。
「部屋に帰って、休みます」
隆志は長身の身体を折り曲げて窮屈そうに頭を下げると、住み込みの自分にあてがわれた二階への階段を、所長を振り向くことなく上って行った。
背後に刺さるジトリと冷たい所長の視線は確かに痛かったが、隆志はそれより何倍も事務所に残された黒い電話機に未練を残していた。
非番の日でも、隆志が事務所の電話の前で陣取っていたのには理由がある。
隆志は待っていた。
熊本に居た時、自分を東京へと呼び戻した、あの無言電話を。
理穂子がかつて確かに自分に対して向けていた、助けを求める、もの言わぬ声を待っていた。
もしやと思い、『不知火』へ自分から公衆電話で電話をかけたこともある。
『……はい「スナック 不知火」』
「マサさん?」
電話に出た商売っ気のまるでない、ぶっきらぼうな懐かしい声を聞いて、隆志はそれがすぐにアカリの子弟、『不知火』の用心棒も兼ねた従業員のマサであることが分かった。
「久しぶり、マサさん」
『お? その声……隆志か?』
熊本から五年ぶりに帰って来たというのに、挨拶もそこそこにすぐに東京へ出てきてしまった不義理な自分なのに、未だに電話の声一つで思い出し、家族のように扱ってくれる、この店の人々の温かさに救われる。
「マサさん、今はどんな髪型なの?」
人と馴れ合うことの苦手な隆志でも、思わず軽口が漏れる。
『よく聞いてくれたな。今はなぁ……』
『なんね? マサ、あんた今、隆志ば言いよっと?』
懐かしい、若い娘の熊本訛りが聞こえてくる。
『ちょっと、代わらんね! 受話器ば寄越しんしゃいっ!』
『やめろっ、亮子っ! い、痛い、首絞めんなっ!』
受話器の向こうで大騒動になっている様子が伝わってくる。鼻っ柱の強い、だがいじらしく自分を慕ってくれる、はとこの亮子の声だと分かる。
『二人とも、いい加減にしなさいっ!』
受話器をキーンとさせる女のドスの効いた声がして、ガチャガチャと雑音がしたかと思うと、この店の主、隆志の叔母にあたる八代アカリがようやく電話口に出た。
『本当に隆志君なの?』
「はい」
『全く、あんたって子は……東京に行ったら行ったで、半年も連絡寄越さないで。まあ、でもいいわ。この前は五年だったからね』
相変わらずの気風の良いアカリの声を聞いていると、疲れた隆志の心にも少しだけ気力が戻ってくるような気がする。
「……あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
あまり長く声を聞いていたら情が勝って東京での暮らしを投げ出し帰りたくなってしまいそうだったので、隆志はさっさと電話をかけた当初の目的を思い出し、切り出した。
「斎木からそっちに、何か連絡はない?」
『ナナちゃん? ナナちゃんに何かあったの?』
勘のいいアカリはすぐに隆志の様子に気が付いて、声を潜めた。隣にマサや亮子がいるのを気遣ったのだろう。
「何も無いよ。聞いてみただけだ」
『東京で、ナナちゃんに会ったんじゃないの?』
「……うん」
『隆志君? 本当に、何かあったんじゃないの?』
アカリの声音がキツくなる。
「本当に何もないよ。ごめん、アカリさん。邪魔したね」
『ちょっと、隆志君?! たかっ……』
アカリにこれ以上何か聞かれる前に、隆志は自分から受話器を置いた。
14歳の時、髪を赤く染め東京から逃れてきた理穂子が、一人でかつて智之と親子三人で暮らした街に戻り、『不知火』に身を寄せていたのは、期間にすればほんの数週間のことだ。
だがあの時、互いに別の痛みを抱えながら、キャンプファイヤーの前でひと時寄り添った魂は、長い間隆志の理穂子に対する胸の炎を燃やす、明らかな糧となった。
傷ついた理穂子は、今もひっそりとあの隆志たちが生まれ育った灰色の街に戻っているのではないか。
いい思い出ばかりではない、だが貧しくとも人の温もりがあったあの街に……。
隆志にはそう思えてならなかった。
もうほとんど忘れかけていた、かつては自分と母親の美華の住まいであった長屋の電話番号を回してみようとようやく決心したのは、『不知火』に電話をかけた随分と後になってからのことだった。
あの長屋には、今は智之が住んでいる。
隆志が不在にした五年の間、隆志の居場所を守ってくれた男だ。
理穂子の父親で、隆志の母親の美華を愛した故に、幼い二人に耐え難い心の傷を残しつつも、隆志にとっては美華さえも与えてくれなかった、肉親以上の愛情と優しさを注いでくれた相手でもある。
理穂子が彼を頼って行くのではないかと思う反面、自分にとっても父親のような存在の智之に、理穂子の今の惨状を悟られるのではないか、そんな恐怖があった。
だが、今は理穂子を見つける方が専決だった。
(次に無理をすれば、母体共々、保障できません)
医師の冷たい無機質な言葉が蘇る。
どこにいても、ただ無事でいてくれさえすれればそれでいい。
10円玉を何枚も握り締めて、隆志は夜の電話ボックスに入った。