(6)
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「葵! 実!」
病室から出てきた瑠璃は、隆志に抱かれている二人の姉弟を見て、悲鳴に近い金切り声を上げた。
「何してるの? こっちへいらっしゃい!」
若草色のシフォンのワンピースを身にまとった少女のような女だったが、敵意剥き出しの蔑むような瞳が、遠慮なく隆志へ向けられていた。
隆志の胸で緊張の糸が解けて泣いていた姉弟はようやく落ち着いて来たところで鬼の形相の母親に呼ばれ、困惑したように隆志と母を見比べていた。
「……ママのところへ行けよ」
隆志はそんな二人の背中を軽く押し、母の元へと促す。
瑠璃は戸惑いながら歩いて来た二人を自分の身体で庇うようにしてから、隆志を一瞥し、礼の言葉一つなく、隆志の脇を通り過ぎた。
「……ライダーのおじちゃん、バイバイ」
振り返って手を振りかけた実の頭を、乱暴な力で戻し、瑠璃は足を早めた。
三人の背中が見えなくなるまで見送ってから、隆志は大きな溜息をついて後ろを振り返った。
瑠璃が出てきた病室のドアを見やる。
『早川理穂子様』と書かれたネームプレートが下がる病室の前に立ち、ドアに手をかけては、何度もその手を下ろし、俯いたまま固く目を閉じた。
何度かそれを繰り返してから、隆志はやがて意を決したようにドアノブを回す手に力を込めた時、中から理穂子と早川の声が聞こえて来た。
「……俺と、誰も知らない場所へ行くか?」
背を向けたまま呟いた早川の言葉は、耳をすませても聞き取れないほど微かなものだった。
「早川グループのことも、親父のことも、死んだ母や美紗緒さんのことも、今の家族のことも、何もかも全部忘れて、俺と逃げるか?」
先ほどよりはっきりとした呟きで、早川が告げる。
「何、言ってるの?」
理穂子の声は震えている。
「考えたことはない、お前は? 理穂子……」
「兄さんっ!」
涙声で理穂子が叫ぶ。
そのまま嗚咽を漏らす彼女を振り返り、出て行きかけた早川は再び理穂子の横に無言で立ち尽くす。
「……出来るわけない。そんなこと、出来るわけないじゃない」
「そうだよ」
あっさりと、早川は頷く。
「俺は、こんな嘘を、平気でつける男なんだ」
涙と怒りに燃えた目で、理穂子が早川を見上げる。
「知ってただろ、理穂子? 何で、騙される」
露悪的なことを口にしながら、そんな早川の目にも涙が光っていた。
理穂子の拳が、再び早川の胸に打ち付けられる。
「……酷い男」
「……ああ」
「死ねばいい……あんたなんか……」
「お前に殺されるなら、本望だよ」
早川はそう言って、胸を叩く理穂子の体ごと、きつく彼女を抱きしめた。
勢いでほんの少し開けてしまったドアの隙間から、早川の広い背中と、その肩に爪を立て、泣きじゃくる理穂子の姿が見えた。
「……兄……さん」
無意識に早川を呼ぶ理穂子に、早川は搾り出すような声で答える。
「許しは、請わない」
それは理穂子に向けた言葉のようで、自分自身に言い聞かせる言葉にも聞こえた。
「俺たちは、泣いたりもしないんだ」
早川の拳を握る手に力が篭もる。
「……鎖の、数が増えた」
早川の唇から、掠れた笑い声に似た音が漏れた。
「お前と、俺を繋ぐ、罪の鎖だ。いいよ、理穂子――俺も一緒に、血を流すから」
後姿しか見えない早川の背に、隆志は深い闇が見えた気がした。
音を立てず静かに、隆志は病室のドアを閉めた。
闇の中に、二人だけを残して。
長い廊下を一人で歩きながら、隆志は理穂子に問いかける。
彼は、君の炎?――
君の情熱を、傾ける相手?
傷を負うのは、いつも君だ。
彼じゃない。
彼は少しも、傷つかない。
だって、彼は傷つくことに愛を見ている。
君が傷つくほどに、血を流すほどに、彼はその中に愛を見るんだ。
君も、そうなのだろうか。
自分の傷の中に、彼への愛を見ているのだろうか。
それならきっと、君へは届かない。
皮膚の上を、ただ撫でるように、優しく労わることしか出来ない僕の愛では。
刺青のように互いに深く刻まれた、彼と君の炎の前では、僕の愛など一瞬で燃え尽きてしまうのだろう。
それでも、ねえ……斎木――
それでも、君はそんなにも、彼を求めるの?