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炎の中へ  作者: 春日彩良
第8話【送火(おくりび)】
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(5)



「理穂ちゃん、理穂ちゃん!」


 下腹部が脈に合わせて鈍い痛みを訴えている。まどろみの中に入れば幾分悼みは和らぐものを、先ほどから甲高い女の涙声で名を呼ばれ、理穂子は眉をしかめた。



 痛い……

 痛い……

 やめて、呼ばないで。

 お腹が痛いの……

 赤ちゃんに、悪いから。

 お願い、止めて……

 赤ちゃん。

 私の、赤……


 

 パチッと音がするように、理穂子の薄く静脈の浮いた瞼が開かれた。


「理穂ちゃんっ!」


 瑠璃の声は、ますますトーンを上げていく。


「気が付いたのね。良かった!」


 理穂子が視線を定まらせるよりも早く、瑠璃はワッと泣き出して、横たわる理穂子の上に覆いかぶさった。


「……義姉さん?……ッ」


 目の焦点が合ってくるのと同時に、下腹を襲っていた鈍痛が、明らかな痛みに変わって理穂子を襲った。


「水臭いわ。どうして言ってくれなかったの? もっと早く相談してくれていたら……」


 瑠璃は自分が涙を流す方に忙しく、苦痛に歪める理穂子の表情には気付いていなかった。


「本当の姉妹だと思ってって、いつも言っているのに。私だって、二人も産んでいるのよ。きっと、力になれたわ」


 この人は何を言っているのだろう。

 理穂子は痛み以外まだ覚醒しきらない意識の中で、騒々しく泣き喚く腹の上の瑠璃の頭を見ながら考えを巡らせた。

第一、ここはどこなのだろう。

 いつものように、体よく葵と実の世話を押し付けられて、自分のアパートに居たはずなのに。

 だが、今自分が横たわっている背中のマットレスは固く、見上げる天井はアパートよりもよほど殺風景だ。

「理穂ちゃんが妊娠していることを知っていたら、葵や実を預けたりしなかったわ。ごめんなさい、無理をさせて。私のせいね」

 その時、理穂子はハッと我に返った。

 そうだ。

 この女が帰った後、たまらない吐き気と腹痛に襲われて、そして……

 ゆっくりと頭を巡らせた先には、病室の扉のところで佇む早川の姿があった。





「あ! ライダーのおじちゃんっ!」


 理穂子の病室を探しあぐねていた時、長い廊下の向こうから、小さな姉弟が先に隆志の姿を見つけて駆け寄って来た。


「お前ら、どうやってここに?」


 今にも泣き出しそうな不安気な顔で隆志に走りより、弟の実にあっては埃っぽい隆志の販売所の制服の胸に顔を埋めて本格的にベソをかき始めている。


「おじちゃんと理穂ちゃんが行っちゃってから、パパの会社に電話したの」


 実とは違い、姉らしく説明する葵だったが、噛み締めた唇は小刻みに震え、必死で涙を堪えているのが分かった。

 隆志は今更になって、理穂子を助けるのに夢中で、この幼い姉弟を理穂子のアパートに置き去りにしてしまったことを思い出した。

 どんなに怖かったことだろう。


「……ごめんな。二人っきりにさせて」


 隆志はそう言うと、泣き出す寸前で堪えている葵の頭を抱き寄せた。


「葵は偉かったな。ちゃんとパパに連絡して、実と待ってたんだろ。偉いな、お前は」


 すると葵は、もう我慢の限界とばかりに、隆志の胸で思い切り泣きじゃくり始めた。姉のそんな姿を見て、実も火がついたように泣き出した。

 病院の廊下で大泣きする二人を抱きしめる隆志を、すれ違う看護師や患者たち、面会の客たちはあからさまに非難の目を向けてきたが、隆志は構わずに、この幼い姉弟の頭をいつまでも優しく撫でてやった。





 ベッドの上の理穂子と目が合った早川は、そのまま微動だにせず、静かに口を開いた。


「瑠璃……ちょっと、出ていてくれるか?」


 未だ、無抵抗の理穂子にしがみついていた瑠璃は、泣きはらした目で早川を振り返った。


「実と葵を廊下で待たせたままだ。あいつら、昼食もまだだろう。頼むよ」

「……そうね。分かったわ」


 瑠璃はようやく理穂子から身体を離し、代わりに理穂子の左手をギュッと握り締めて言った。


「理穂ちゃんには、私と洋介さんが付いてるわ。だから、安心していつでも頼ってね」


 理穂子が答える前に、早川が再度、瑠璃を促す。

 瑠璃が白いハンカチを取り出して、優雅な仕草で濡れた頬を拭うと、もう涙の痕は綺麗に消えていた。

 瑠璃が出て行った後も、早川はしばらくドアのところに佇んだまま、すぐに理穂子のベッドの側に近づこうとはしなかった。

早川の拳は何かに耐えるように、固くグーの形に握られていた。


「言えばいいじゃない」


 不意に、横たわる理穂子のが口を開いた。


「義姉さんに、言えばいいわ。理穂子は産まないよって」


 早川は、拳を握り締めたまま、無言で理穂子の枕元へと寄って来た。


「……俺の子か?」


 ベッドの上の理穂子の瞳が大きく揺れる。

 水気を含んだ大きな目が、怒りと憎しみを込めてギラリと光る。よろめきながら身体を起こす理穂子に、無意識に差し伸べられた早川の手を、理穂子はすげなく振り払う。

 そして、無言のまま、拳を握り締め、目の前にある早川の胸をドンッとひとつ叩いた。

 一つ、もう一つと、打ち付けるようにその拳の数を増やしていく。早川はただ黙って、理穂子の殴打を受け入れている。

 打ちつけるほどに、早川の体温と、体臭に混じったあのムスクの香りが立ち上り、それは同時に理穂子の胸も苦しく殴打した。


「……ごめん」


 理穂子の拳を受け入れたまま、早川は呟く。


「……あの男がいたから」

「あの男?」

「……お前が、俺から逃げたのかと思ったんだ」


 理穂子の白く小さな拳を取って、早川が呟く。彼の言葉の意味が分からず、理穂子は唖然とした表情を浮かべていたが、やがてクッと咽喉の奥を押しつぶすような笑いをこぼした。


「本当に、呆れた人ね」


 嘲るように続ける。


「あなたは、何も分かってない」


 早川の手を振り払い、理穂子は声を上げた。


「姉さんに言えばいいのよ。理穂子の力になれることなんか、何もないって。“だって、理穂子は産まないよ。俺の子だから、産まないよ”って」


 いつかの自分が浴びせた言葉を、理穂子はまるで壊れたテープレコーダーのように繰り返す。


「“俺たちの三番目の息子か娘か、愛人と妻の子どもが同級生だなんて、そんな三文小説みたいな真似は出来ないから”って」


 感情のままに理穂子が一息に叫び終わると、早川は呆然とした様子で目を見開いた。


「……今、何て?」

「義姉さんのことも知らなかったの? あなたは本当に、何も知らないのね」


 皮肉気に歪められた理穂子の片頬を、新たな筋を作って静かに涙が流れていく。


「本当なのか?」

「自分で確かめてみたら」


 冷たく突き放す理穂子に、早川は眉をひそめて背を向けた。

 



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