(2)
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片方の肩紐が外れたランドセルを、骨ばった背中に引っ掛け、隆志は俯きながらブラブラと校庭を横切り、いつも通る学校の裏門から帰路に着こうとした。
その時、不意に鼻を突いた独特の匂いに、隆志は足を止めた。
思わず顔を上げると、古びた小さな焼却炉が、モクモクと黒煙を上げていた。
長年の風雪に晒され老朽化の著しい焼却炉は、校舎の裏手に忘れ去られたように置かれていたが、瀕死の人間が最後に吐き出す執念の祈りのように、絶え間なく、空へ黒い煙を吐き出していた。
それは、この焼却炉が未だ生きていることの何よりの証だった。
引き寄せられるように、隆志は朽ちかけた焼却炉へ歩を進めた。
重い扉に手をかける。
グッと力を込める。
ギギ…ギギ…と金属の擦れる嫌な音がして、徐々に扉が開いていく。ある程度まで力を入れたとき、急に抵抗がなくなり、一気に扉が全開になった。
ブワッ……
熱風が隆志の頬を撫で、額の髪を揺らした。
隆志は、バランスを崩して、危うく炎の中へ転がり落ちてしまいそうになるのを、グッと堪えて踏みとどまった。
瀕死の焼却炉は、未だ消えることのない、生きた炎を内包して、隆志の目の前で赤々と燃えていた。
うねり、燃え上がる炎は、嫌なもの全てを呑み込み、焼き尽くしてくれるだろうか。
隆志はしばし生き物のような動きを見せる炎に見惚れていたが、我に返ると、ボロボロのランドセルを肩から下ろし、自分もしゃがみこむと、ランドセルの中をガサガサと引っ掻き回し始めた。
錆ついたペンケースや、白紙のテストの答案用紙などを乱暴に鞄の外へ放り出すと、隆志は底から一枚の紙を取り出した。
『授業参観のお知らせ』
日付は明日だった。
結局、今日この日まで、母には渡せずじまいだった。渡したところで、あの母が来てくれるとは思えない。
それ以前に、十二歳になる隆志は、母の商売の意味するところを、いつの間にか肌で感じとっていた。羞恥だけではない、母への嫌悪感に似た感情を、まだ何と呼ぶのかは知らなくても、母を人前に出したくない理由には十分すぎる程だった。
隆志はその紙をギュッと握り締めると、大きく口を開ける焼却炉の扉の前で立ち尽くした。
炎は、隆志を誘うようにその手を扉の手前ギリギリのところまで伸ばしてくる。
キュッと口元を引き結ぶと、隆志は授業参観のお知らせの紙を、炎の中へ投げ入れた。
燃えてしまえ。
嫌なことは全て。
焼き尽くして、灰にしてしまえ。
最初から、何もなかったかのように……
あっという間に炎に呑まれて、跡形もなくその姿を消した紙の行方を見届けてから、隆志は焼却炉の重い扉に手をかけた。
「……見ちゃった」
その時、突然背後からかけられた声に、隆志は飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて振り返ると、そこには斎木理穂子が立っていた。
「島貫君、いけないんだ」
理穂子は悪戯っぽく笑うと、ドギマギする隆志に構わずに、自分も焼却炉の扉の前まで歩いてきて、中を覗き込んだ。
「すごいね。焼却炉の中、見るのなんて初めて」
いつも掃除当番の際には焼却炉までゴミを運んでくるのは生徒たちの役割だったが、危険なので、ゴミを入れて火をつけた後は、必ず鎖と南京錠で扉を施錠するのが常だった。どうやら、今日はたまたま、学校住み込みの管理人が鍵をかけるのを忘れたようだ。
「……ど、どうして?」
こんなところに?……続きは言葉にならなかった。
学校の裏門へ通じるこの場所は、理穂子の帰路とは間逆の方向のはずだ。
「帰りの会、終わっちゃったよ」
理穂子は隆志の質問には答えずに、炎を見つめたままで言った。
自分が帰りの会にいなくても、担任は気づきもしないだろう。それは、問題ではなかった。
「さっき、火の中に何を入れたの?」
「え?」
「当ててあげようか」
理穂子は微笑むと、黙って自分の赤いランドセルを地べたに下ろした。そして、先程の隆志の真似をするかのように、スカートの裾から下着が見えないように気を使いながらしゃがみ込み、ランドセルの中を探り始めた。
「これ」
理穂子は宝物を見つけて自慢する子どもように、隆志の目の前に一枚の紙を突き出した。
それは、先程隆志が抹消した「あの紙」と同じものだった。
「私、多分、島貫君と同じこと考えてるよ」
隆志は訳が分らずに、理穂子の顔を凝視した。
理穂子は微笑を浮かべたまま立ち上がると、隆志から視線を逸らさずに、片手に持った「あの紙」を、何の躊躇もなく、ヒラリと炎の中へ投げ入れた。
「あっ!!」
隆志が慌てて伸ばした手をすり抜けて、授業参観のお知らせは、炎の中へ吸い込まれていった。
「どうして?……」
先ほどから、隆志は同じセリフしか口にしていない。
目を丸くする隆志の顔を見て、理穂子は思わずプッと吹き出した。
「聞いてばかりだね。島貫君と同じだよ。私もパパたちに、授業参観に来てほしくなかっただけ」
理穂子はまだ唖然としている隆志の顔から目を逸らし、ゆっくりと炎の方へ視線を移した。
「……キレイだね」
隆志も理穂子につられて、炎に目を落とす。
「汚いものが、燃えているのにね」
「キレイにするんだよ」
隆志の初めてのまともな答えに、理穂子は少々面食らったように隆志を見た。
「汚いものも、嫌なものも、全部飲み込んで、キレイにするんだ。だから、燃えてる火は、こんなにキレイなんだ」
ふーん、と理穂子は感心したように頷いた。
「生まれ変わるんだね」
「うん、そう」
日の落ち始めた校舎の隅で静かに燃える火は、理穂子の白い額や頬を赤く染め、色素の薄い栗色の髪を金色に照らし出していた。
「……斎木」
「うん?」
隆志は炎を見つめる理穂子の横顔を眺めながら口を開いた。
「何か、あったの?」
理穂子は視線を上げずに、口の端だけに薄く笑みを作った。
しかしその瞳は、笑ってはいなかった。
「島貫君、授業参観のこと秘密ね」
「え?ああ、うん」
ブオッ――
その時、一際大きな炎が、空気をはらんで吹き上がった。
「危ない!」
隆志は咄嗟に、理穂子の肩を抱き、炎に背を向けて理穂子の身体をかばおうとした。
炎はすぐにその勢いをなくし、焼却炉の中へ戻っていった。
「ご、ごめん…大丈夫?」
我に返ると、思わず理穂子の身体に触れてしまったことが恥ずかしく、隆志はおずおずと、理穂子の肩に置いていた手を離した。理穂子は突然のことに目を丸くしていたが、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
隆志は理穂子から離した手の行き場に困って、意味もなく自分のズボンの尻の部分に、ゴシゴシと擦り付けたりしていた。
「島貫君」
理穂子は落ち着きを取り戻した声で、隆志の名を呼んだ。
「私たち、共犯だね」
理穂子は、二人分の「授業参観のお知らせ」を呑み込んで燃え上がる焼却炉の炎を見つめながら、そっと呟いた。
それから、地べたにおいたままにしていた自分のランドセルの中から、一冊のノートを取り出し、一番後ろのページを丁寧に破って隆志に差し出した。
「これ……」
「え?」
「サイン帳。ごめんね、こんなので」
そう言うと、理穂子はクスリと笑いを漏らした。
「……トクベツ、かぁ」
「何?」
「……ううん、こっちの話」
理穂子はなおもクスクスと笑うと、隆志の手にノートの切れ端を握らせて、念を押すように言った。
「卒業式の日までに書いてね」
「……うん、分かった」
理穂子の強い眼差しに、隆志も真面目に頷いた。
この時はまだ、何も知らずにいた。