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意識のない理穂子を抱えたまま、隆志は一番近くにあった総合病院のロビーに駆け込んだ。
「番号札を取って、お待ちください」
ろくに隆志の顔を見ることもせず、そう告げた受付の女に、隆志は身を乗り出して詰め寄った。
「そんな悠長なこと言ってられないんだよっ! 早く通して」
「ですから、予約でないなら、番号札を……」
「死にそうなんだよっ!」
ドンッとカウンターを拳で叩く鈍い音とともに、隆志の怒声がロビー中に響き渡る。
「……頼むから、助けてくれ」
まだカウンターに置いたままの拳を震わせながら、隆志は俯いたままそう言った。受付けの女はようやくガタッと音を立てて椅子から立ち上がり、内線電話を掴んだ。
「……もしもし、緊急外来を……」
しばらくの後、ロビー奥の診察室から出てきた何人もの看護師や医師の手によって、理穂子は医療用ベッドへ移された。
「……斎木、大丈夫だから。もう、心配ないからね」
運ばれていく最中も、隆志は意識のない理穂子に声をかけ続けた。
「付き添いの方は、ここでお待ちを」
処置室に入る直前、隆志は看護師に制され、廊下に一人取り残された。
理穂子はベッドに寝かされたまま、処置室のドアの向こうへと消えた。
どれくらいの間そうしていたのだろう。
処置室の前の椅子で俯いていた隆志の視界に、白衣を着た医師の足が見えた。
「……あの女性の、付き添いの方ですか?」
隆志は弾かれたように顔を上げた。
「は……はいっ!」
「……お腹の子の、お父さん?」
心なしか、医師は険しい表情で隆志を見つめている。肯定も否定も出来ず、隆志は曖昧に頷いた。
「ちょっと、こちらへ」
医師は渋い顔をしたまま、顎をしゃくって隆志を促した。
狭い問診室に通された隆志の前で、医師は無言のまま自分の席に着いた。その隣りには、若い看護師の女が、これもまた一切口を閉ざしたまま佇んでいる。
二人が醸し出す雰囲気から、隆志は暗に自分が責められている空気を痛いほど感じていた。
医師がカルテを繰る乾いた音だけが、問診室で発せられる唯一のものだった。
「……どうしますか?」
沈黙を唐突に破ったのは、医師の方だった。
「え?」
医師の問いの意味が分からず、思わず聞き返す隆志に、医師は厳しい口調で言った。
「産む気があるんですか? それとも、ここで処置を?」
「それって、どういう……」
医師は左右に首を振ってから、隆志の目を見つめて言った。
「一体、どんな生活を送って来たんですか? まさか、妊娠に気付かなかったわけじゃないでしょう。食事もまともに取っている形跡がない。あの様子じゃ、検診にも行ったことがないでしょう? もし行っていたら、どんな医者だって、即入院させています」
何と言葉を返していいのか、戸惑いばかりを見せる隆志に、医師は盛大な溜息を吐き出して、怒気を含んだ声で言った。
「なぜ、こんな風になる前に、もっと身体を労わるように言わなかったんですか! あなた、父親でしょう? 命を何だと思ってるんですか。あなたも、あの女性も」
隆志には何も返す言葉がなかった。
ただ、黙って俯くしかない。
医師は諦めたようにもう一度大きな溜息を吐くと、諦めたように隆志から視線を外した。
「危ないところでしたが、今のところ赤ちゃんは無事です。だが、次に無理をすれば、母体共々、保障できません」
「……ありがとうございます」
消え入るような声で、隆志が答える。
それだけ言うのが精一杯だった。
「直に、麻酔も醒めるでしょう」
いくらか怒気の収まった医師の声が、頭上から降って来る。その言葉に、隆志が椅子から腰を浮かしかけた時、いきなり問診室のドアが開け放たれ、息を切らせた男女が飛び込んできた。
「何ですか、あなたたちは?」
ノックも無しに、不躾に飛び込んできたこの客人に、医師は眉を吊り上げた。
「すみません、早川理穂子の親族の者です」
長身の男の方が、紳士然とした態度で医師に向かって頭を下げた。
「理穂子の兄の、早川洋介と言います」
立ち上がるタイミングを逃した隆志は、下からその男の端正な顔を見上げていた。
トレンチコートの男――
それは間違いなく、理穂子のアパートの前で、理穂子を泣かせていたあの男だった。
(早川洋介――あいつは、悪い男だ)
妙に幼稚な、だが真剣極まりない健吾の言葉が不意に浮かんでくる。
「……妹は一体……」
「家族もご存知無かったんですか?」
医師は眉間に皺を寄せて、隆志と早川を交互に見やる。
その時初めて、早川は隆志の存在に気付いたようだった。
「……君は……」
そう言った次の瞬間、早川の目に鋭い光が浮かんだ。
それは一瞬の変化だったが、冷たい憎悪に満ちた青い炎のように隆志には感じられた。早川はすぐに何事もなかったようにその炎を打ち消し、医師に視線を戻した。
「教えてください。僕は兄ですが、妹の親代わりでもあります。妹はどこか悪いんですか?」
「……妊娠されてます。今、8週目に入ったところです」
「え?」
声を発したのは、早川ではなかった。
これまで早川の後ろで息を切らせていた女が、形の良い唇を白い手で覆って、目を見開いている。
「理穂ちゃんが……そんな……」
緑色のシフォンのワンピースがヒラリと舞い、座っている隆志の擦り切れたジーンズの腿を撫でていく。病院の消毒液の匂いと、女から漂う花の香りが同時に隆志の鼻を付いて、その違和感に思わず胸が詰まるような感覚を覚えた。
「……あなた」
女はしなだれかかる様に、早川の胸に縋りついた。早川は自然な仕草で、女の肩を抱き、そのまま擦ってやった。
何もかもが自然すぎて、却って芝居染みて見えた。
「あなたが、理穂ちゃんの?」
早川の胸に頭を預けたまま、女はまるで汚いものを見るような目で隆志を見下ろした。
無理もない。
今の自分は、勤め先である新聞販売店の制服を着込み、下は擦り切れたジーンズに、煮染めたような汚れの浮いた、履き潰したスニーカーと言う姿だった。
まるでスクリーンの中から抜け出してきたような、美しい夫婦の前では、自分は浮浪者のようだと隆志は思った。
「理穂子に会えますか?」
早川は妻の肩を擦る手に力を込めて、妻の視線を隆志から引き離した。隆志のことは、無視するように暗に妻に伝えたのが分かった。
「処置室から一般病棟へ移しています。もう麻酔も切れる頃だと思いますが……君、案内して」
医師は隣りで控えていた若い看護師に指示をして、夫妻を部屋の外へと促した。
二人は隆志を振り返ることもなく、看護師の後ろについて出て行った。
「……あなたは?」
一人取り残された隆志を見て、医師は不審そうな顔で尋ねた。
早川の態度からも、隆志が女の家族に認められた存在では無いことを悟ったようだった。
隆志はただ頭をペコリと下げ、逃げるように問診室を後にした。
それでも、このまま理穂子を置いて帰ることは出来なかった。
遠くから一目だけでもいい、理穂子が本当に無事でいるのか、それを確かめて、ひっそり帰ろうと思った。
隆志の足は、自然に早川夫妻が消えた、病棟の方へと向かっていた。