(3)
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瑠璃に初めて会ったのは、理穂子が高校一年生の時。
早川との子どもを堕ろす、ちょうど一年ほど前のことだった。
早川の『友達』と称して、幾人もの女が自宅を訪れていたが、一目見たその時から、瑠璃が『特別』であることが理穂子には分かっていた。
政財界の大物の一人娘である瑠璃は、企業としての『早川家』に必要であることは明白だったが、早川にとってそれだけの存在でないことは、誰の目にも明らかだった。
生まれ落ちた時から何不自由のない暮らしを送り、屈託のない美しい微笑を浮かべる瑠璃は、早川にとっては太陽のように感じられたことだろう。
早川の気持ちが理穂子にはよく分かる。
影を持つ者が、光に憧れずにはいられない気持ちを。
そんな憧れは、決して長く続きはしないのに。
結局、影に戻ってくるくせに。
理穂子は瑠璃の背中を見ながら、ほんの少し口角を上げて笑った。
「実、葵、いい子にしていてね。夜には迎えに来るからね」
言うなり、瑠璃は断りもせずに、いきなりシャッと音をたてながらリビングのカーテンを開けた。
途端に入り込んできた目を焼く朝の光に、闇に慣れていた理穂子の目は眩み、思わず瞼を伏せて唇を噛んだ。
「今日はいいお天気だから、理穂ちゃんにお散歩に連れて行ってもらうといいわ」
瑠璃の言葉に、実が「お散歩、お散歩」とはしゃいだ声を上げながら、力の抜けた理穂子の腕を左右に激しく揺さぶった。
されるがままの理穂子は少しよろけながら、容赦なく目を焼こうとする太陽から視線を逸らした。
瑠璃はしゃがんで実と葵の額に一つずつキスを落としてやってから、尚も立ち尽くしたままの理穂子を見上げて言った。
「そうだ、理穂ちゃん」
この女に見つめられると、何もないのに構えてしまう。昔からそうだった。
「今週の日曜日、空いてる?」
「また、二人を預けるつもりですか?」
「ううん、違うわ」
瑠璃は苦笑しながら首を横に振る。
「兄がね、葵と実を一日動物園に連れて行ってくれるって言うから。一日自由になるから、
久しぶりに買い物にでも出ようかと思って。理穂ちゃんが一緒に来てくれたら楽しいわ」
理穂子より随分年上だというのに、屈託なく笑うその表情はまだ充分な愛らしさを残している。
「それでね、帰りに家に寄って食事しない? いつものお礼も兼ねて、理穂ちゃんにあげたいものがあるの」
両手を胸の前で組み合わせて、フフッと微笑む。
「太っちゃって、入らなくなった洋服がいっぱいあるのよ。捨てるには勿体ないし、理穂ちゃんがもらってくれたら嬉しいな」
「全然、そんな風には見えませんけど」
理穂子は冷めた視線で、瑠璃の頭から爪の先まで不躾な視線を隠そうともせずに言った。
理穂子の視線に気付いたのかどうか、瑠璃は肩を竦めてそっと理穂子に近付いて言った。
「実はね……」
そう言って、瑠璃は理穂子の耳元に唇を寄せる。
甘い香りが、鼻先をくすぐる。
「……もう一人、子どもが出来たの」
聞いた瞬間、理穂子の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
まだ、ナイショよ――洋介さんにも言ってないの。
あとの瑠璃のセリフは、理穂子の耳には全く入ってこなかった。
無意識に、自分の腹に手をやる。
「ママ、お腹すいたよ」
その時、葵が瑠璃のシフォンのスカートの裾を引っ張ったせいで、理穂子にとって死ぬほど息苦しかった空間に、小さな亀裂が入った。
「ああ、ごめん。それじゃあ、ママはもう行くね。理穂ちゃんに悪いけど、この子たちまだ朝ご飯も食べてないから、よろしくね。今日は本当にありがとうね。来週の件、考えておいてね」
瑠璃はそう言って微笑むと、入って来た時と同様、蝶のような軽やかさで、ヒラヒラと飛びながら理穂子のアパートを出て行った。
理穂子に玄関まで見送る気力は無かった。
「理穂ちゃん先生?」
立ち尽くしたまま様子のおかしい理穂子を見上げて、実がクイックイッとその手を引っ張る。
理穂子はそれに引きずられるように、腹を押さえてその場にズルズルと崩れ落ちた。
瑠璃の残した甘い香水の残り香が急に鼻について、そのままそこで激しく嘔吐した。
「理穂ちゃん先生っ?!」
すえた匂いと、獣染みた唸り声を零しながら胃の内容物を吐き出し続ける理穂子に驚いた葵が駆け寄って来る。
繋いだ手を理穂子の吐瀉物で汚した実は、驚いてその場で泣き出してしまった。
「理穂ちゃん先生! 理穂ちゃん先生!」
肩を揺する葵も泣きながら理穂子の名を呼び続けるが、その二人の激しい泣き声さえも、徐々に意識の片隅に追いやられていった。
隆志はいつもの習慣で、全ての門戸に朝刊を配り終えた帰り道、理穂子のアパートの下を通りかかった。
使い古したスクーターのエンジン音が、時折ボフッボフッと怪しげな音を立てるのを騙し騙し走らせる。
こんなボロでも、販売店からの借り物である以上、大事に扱わなければならない。特に、朝刊配りのルート以外に、『斎木のアパート下』という余計なルートを回ってもらっているのだ。
毎月ガソリン代がかさみすぎじゃないかと販売店の店主に疑いの目を向けられても、まだこの辺りの地理に明るくないから迷ってしまうのだと苦しい言い訳をしながら、隆志の迂回は続いていた。
いつの間にか、理穂子の生活パターン、夜勤や日勤のシフトまで覚えてしまった隆志だったが、今日は様子が違っていた。
いつもなら夜勤明けのこの時間、理穂子のアパートでは日に焼けたカーテンがぴっちりと窓を覆い、この家の主人の浅い眠りを守っている頃だった。
だが今日は、レースのカーテンさえも開け放され、容赦ない陽射しが部屋の中に差し込んでいた。
それはまるで、安らげる寝床を無理やり暴かれ、暴力のような陽の元に晒された小さな鳥の巣のようだった。
なぜか胸騒ぎを覚えた隆志は、ボフンッと不穏な音を立てるスクーターのエンジンを切って、背伸びをするように理穂子が住む二階の窓を見上げた。
気のせいか、奥で小さな黒い頭が二つ、チラチラと揺れる光景が目に入る。
隆志はスクーターを投げ出して、アパートの階段を駆け上がった。
無理やり開け放たれたカーテンと同じように、玄関の戸も風に遊ばれ、バタンッと大きな音を立てながら、幾度となく壁にぶつかっていた。
「斎木っ?!」
隆志は慌てて、理穂子のアパートの中に駆け込んだ。脱いだ靴につまづいて前につんのめりそうになりながら、哀れな小鳥の姿を探す。
「ライダーのおじちゃんっ!」
その時、悲痛な雛の声にも似た叫び声が、隆志を呼んだ。
その時隆志は、陽を避けたような薄暗い寝室に続く廊下の向こうで、身体を二つに折り曲げて横たわる小鳥と、その小鳥の側で泣きはらした目で助けを待つ、二匹の小さな雛の姿を見つけた。
「斎木っ!」
叫んで駆け寄った隆志の両腕に、泣きじゃくる二人がしがみつく。
「助けて、おじちゃん! 理穂ちゃん先生が死んじゃうっ!」
苦しげに息を継ぐ理穂子の瞳は固く閉じられ、額には脂汗が浮いていた。
隆志は傷ついた小鳥を抱え上げ、陽に荒らされた哀れな巣を飛び出した。