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炎の中へ  作者: 春日彩良
第8話【送火(おくりび)】
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(2)


「遅いお昼だけど、あんたも食べていく?」

「いいの?」

「鳥のササミしかないけどね」


 圭子は針を置き、黄色い洗面器片手に立ち上がった。


「妊娠する前は、あんな味の無いものゴメンだったのに、今はこれしか食べられないの。もう何羽食べたかな。“お前、鳥に呪われるぞ”って、伊藤が本気で心配してる」


 そう言って笑う圭子につられて、理穂子も少しだけ声を立てて笑う。


「生米を食べる人だっているんだから、ササミくらい可笑しくないんじゃない?」

「そうよね。口に入れられるものは、何だって入れなきゃ。元気に産まれてきてもらうためにはね」


 ポンと軽く、張り出したお腹を叩いて、圭子がダイニングと繋がった小さなキッチンへ向かう。


「じゃあきっと、ウサギも食べられるよ」


 その背中に、ポツリと落とした不穏な響きを伴う言葉を、圭子が聞き咎めて振り返る。


「……あんた、何言ってるの?」

「鳥のササミと、そっくりの味らしいよ」


 子どもの消えた保育園の園庭を見下ろしながら、理穂子が抑揚のない声で続ける。


「……理穂子?」

「ごめん。昨日子どもたちに、ウサギの童話を聞かせてきたばっかりだったから」


 振り向いた理穂子の声音は、もういつもの明るい調子に戻っていた。

 一瞬、理穂子の只ならぬ雰囲気に呑まれて言葉を無くしていた圭子だったが、見慣れた理穂子の表情に安堵したように息を吐いた。


「もうっ! 脅かさないでよ。急に変なこと言うからビックリしたじゃない」

「だから、ごめんってば」

「何でウサギの童話から、ウサギを食べる話になるのよ! あんた、そんな怖い話、子どもたちに聞かせてるの?」


 安堵すると同時に、趣味の悪すぎる理穂子のものとも思えない冗談にハメられた自分が悔しくて、圭子はプリプリと怒り出した。そんな圭子を見て、理穂子は静かに笑うだけだった。


「保護者から苦情が来るよ」

「そうだね……泣いてる子もいた」

「怖い先生だね。まったくもうっ!」


 怒りついでに、窓辺で佇む理穂子の秀でた額に拳骨をお見舞いする。

 理穂子は白い額を押さえたまま、そっと圭子の肩に顔を埋めた。

 子を宿した圭子の身体は全体的に丸みを帯び、顔を埋めると甘い乳の匂いに似た体臭がした。

 自分が幼子になったような気持ちで、思い切りその匂いを吸い込む。


「……ねぇ、あんた。やっぱり何かあったの? ちょっと変だよ」


 無造作に束ねた栗色の髪が、昼下がりの陽射しに染まり金色に輝いている。

 呼吸のリズムとは別に小さく揺れる後れ毛が、理穂子の声にならない声を代弁していた。



***



 ヒラリ……

 若草色のスカートが翻る。

 ヒラリ、ヒラリ……

 蝶の羽が舞うように。

 まだ春浅い日差しの中で、そのひとが生きる、光に満ちた世界を彩るように、ヒラヒラと若草色の幸福が舞い踊る。





「ママ、この間ね、理穂ちゃん先生がね!」


 若草色のシフォンのワンピースの裾を、手の中で皺々にしたまま、実はピョンピョンと飛び跳ねるように歩いている。


「ウサギさんがね、和尚さんとね……」

「実、ごめんね。ママ急いでるから、前を見てもうちょっとだけ早く歩いて」


 若草色のシフォンの先には、それと同じ色の柔らかい空気をまとった女の顔がある。


「実、こっちにおいで」


 言うなり、実の手からシフォンを剥ぎ取って、葵はギュッと力を込めて甘えん坊な弟の手を握る。


「ヤダよ! ママと手繋ぐんだ! お姉ちゃんなんか、ヤダ!」

「ワガママ言わないのっ!」


 葵に叱られて、引きづられるように歩く二人を振り返りながら、若草色の女は白く折れそうなほどに細い腕に嵌めた、華奢なブレスレット型の時計に目をやる。


「理穂ちゃん、帰ってるといいんだけど」





「本当にいつもごめんね、理穂ちゃん」


 まだ早朝とも言える時間帯――。

 夜勤明けでベッドに潜り込んだばかりの理穂子は、遠慮がちな、しかしハッキリと朝の空気を切り裂く強かさを持ったチャイムの音で、まどろみから引き戻された。

 ベッドの上に身体を起こした時から、予感はあった。

 出るまでも無い。

 いつもの招かれざる客――。

 睡眠不足で重く痛む頭と、それ以上に重苦しい心を抱えて、アパートを訪れたその女を玄関先で出迎えた時、理穂子は既に後悔し始めていた。

 布団を被って、惨めで滑稽なことこの上ない“居留守”を使ったとしても、この家にこの「光に満ちた」女を入れるべきではなかったのだ。

 若草色のシフォンのワンピースに身を包んだ女――早川瑠璃は、玄関を開けた理穂子を見ると、着ている服のイメージそのままの、春の女神のような微笑を浮かべた。


「理穂ちゃん、一生のお願い! 今日一日だけ、葵と実、預かってくれないかしら」


 一生のお願い――そう言って片目を瞑りながら手を合わせるその仕草は、その辺りの女学生と変わらない。いや、むしろ可憐さという点においては、若さだけの女学生では太刀打ち出来ないだろう。


「実家の母の体調を崩してね。看病しようにも、この子たち二人を連れて行ったら、治るものも治らないと思って」


 そう言いながら、瑠璃は理穂子が促す前に、ヒラリと蝶のような身軽さで理穂子の脇を通り過ぎ、まだカーテンを閉め切っているせいで薄暗い、理穂子のアパートの中へと進んでいく。


「理穂ちゃんは、今日何か予定があったかしら?」


 瑠璃は初めて思い到ったというように、ただ後ろを暗く沈んだ顔で静かに着いて来ていた理穂子を振り返る。


「……いえ、別に」


 聞き取れないほどの小さな声だったが、瑠璃はフワリと満開の笑みを浮かべた。


「ありがとう! 今度絶対、何かお礼させてね。葵も実も、本当に理穂ちゃんのことが大好きなのよ」


 振り返れば、狭い玄関には瑠璃の脱ぎ捨てた白い華奢なサンダルが、羽を休める蝶のような形で転がっている。


 まるで、春の女神の化身のようだ。


 理穂子の部屋を歩く瑠璃の素足の爪先は、薄い桃色に染められている。

 その綺麗に塗られた桃色の爪先が、寝室の前に敷いた日に焼けくたびれたマットレスに食い込む様子を見た時、理穂子は思わず顔を背けたくなった。

 「幸福」の権化であるようなこの女に踏まれるくたびれたマットレスは、まるでボロボロに疲れた自分のような気がした。

 華やかなフローラル系の香水の匂いを撒き散らしながら、瑠璃は蝶のように軽やかに、愛しい我が子をこの薄暗い空間に置いていく準備を進める。

 理穂子は両腕を葵と実に引っ張られながら、ただ呆けたようにその様子を眺めていた。

 


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