(1)
死んだ恋の行く先を、照らす炎があったなら――
誰も迷わず、静かに彼岸へ辿り着けるのに。
小さな箱舟のようなものを持つ祖母と手を繋ぎながら、隆志は危なっかしい足取りで夜の川へと降りる。
岸辺では既に多くの人々が、祖母が持っているのと同じ箱舟を手にして並んでいる。
祖母はそっと川辺の砂利の上にその箱舟を下ろすと、着物の袂から蝋燭を取り出して、その中に立てた。
続いて同じように袂から取り出したマッチを擦って、先ほど箱の中に立てた蝋燭に火を灯した。
「……あ」
祖母の着物の袖を掴んでいた隆志の口から、思わず声が漏れる。
小さな箱の中で灯された火は、箱の周囲に張られた和紙を通して、淡く優しいオレンジ色の光を放っている。
気が付けば、周囲の大人たちが持つ箱にも次々に明かりが灯され、先ほどまで、ただただ闇に包まれていた川原は、無数の淡い火玉で埋め尽くされていた。
祖母は自分の着物の袖を掴んだまま火に見とれている隆志に気が付いて、隆志の小さな手を上から優しく握りしめて言った。
「さあ、たーちゃん。この灯篭さんを持ちんしゃい。あそこに並んで、川に流すんよ」
祖母は自分の手を添えながら、隆志に火のついた箱の船を持たせた。
隆志が手に持った箱の中を覗き込むと、チラチラと燃える小さな炎が鼻先で揺れる。
「吹いちゃいけんよ」
誕生日ケーキの蝋燭よろしく、フッと吹き消してしまいそうな様子の隆志に笑いながら、祖母は箱に手を添えたまま、岸辺に向かって隆志を誘う。
見ると岸辺に集まった人々は、火の付いた箱の船を、川に向かって次々に流しているところだった。
隆志の番が来て、祖母が背中を押す。
隆志は闇の中をとうとうと音を立てて流れている川の水面と、箱の中の火を見比べて、祖母に促されても箱を手放せずにいた。
こんな水の中に入れたら、折角の綺麗な火が消えてしまうのではないか。
隆志の後ろの列がつかえ、祖母は苦笑しながらも更に隆志の背中を押す。
「たーちゃん、そのお船、流してあげんね。そうせんと、ご先祖様が帰り道が分からんようになって、困ってしまうばい」
祖母はしわしわの手を隆志の小さな手に添えて、そっと川面に船を浮かべた。
「ええ子やね」
祖母に頭を撫でられながら、隆志は小さな炎を乗せた無数の船が川面を滑っていく光景を見ていた。やがて自分たちが離した小船も、流れる火の列に加わった。
「この火は道しるべなんよ。お盆で帰ってきたご先祖さまを、あの世にちゃんと帰してあげる、道しるべばい」
祖母は流れていく舟を見つめたまま静かに言った。
「徹司も見とるばい。たーちゃんの焚いた道しるべに沿って、帰れるばい」
魂の帰るべき道を照らす「送り火」を、隆志が初めて目にしたのは、九州の祖父母の家でのことだった。
母の美華の元からさらうように連れて来られたこの遠方の地で、初めて見た死者のための火は、幼い隆志の胸の中に、美しく燃える炎への憧憬を確かに植えつけた出来事でもあった。
顔も知らぬ父のために、祖母に促されて灯した供養の火だったが、その荘厳な光景に癒されていたのは自分の方だったと、隆志はそれから大分時を隔てて思い知ることになる。
後に美華にもこっぴどく怒られながらも、なかなか止めることの出来なかった隆志の『悪癖』である火遊びは、この幼少期の灯篭流しの光景を目にしたことに端を発していたのである。
火が『供養』になると言うのなら、隆志は幼い頃からそれこそ幾度でも、自分の孤独な魂の『供養』のために火を焚いてきた。
ある時は、母の美華の店のマッチで。
またある時は、美華の元を訪れる幾人もの男の胸ポケットからくすねた百円ライターで。
だが、そんな瑣末な炎で救われた自分の魂の『供養』を、いつの日か他の人間にもやることになろうとは、その時の隆志には知る由もなかった。
***
「どうしたって言うのよ。あんた、私の家に日向ぼっこでもしに来たわけ?」
窓辺に腰掛けて、埃の浮いたアルミサッシの窓からただジッと外を見下ろす理穂子に、座布団を持っていってやりながら、圭子が呆れた声を出す。
朝早く工事現場の仕事へ出かけていった健吾と入れ替わるように、何の前触れもなく訪れた理穂子は、午前の間ずっと、飽きもせずに窓の外ばかりを眺めている。
「何かいいものでも見える?」
呆けたような理穂子の頭上の窓ガラスに手をついて圭子が問いかけた時、理穂子は初めて我に返ったように振り返った。
「……圭子」
「圭子……じゃないでしょ。ここは私の家。私が居るのは当たり前。突然やって来て、フラフラ窓辺で何時間も座りこんでる変な客なのはあんたの方よ」
「……ごめん」
理穂子は恥じ入るように、小さく呟いて俯いた。
「別にいいけどね。私も死にそうなくらい暇なわけだし」
気安く笑うと、理穂子に手にした座布団を薦める。
「だから、折角来たなら相手してよ」
茶目っ気たっぷりに肩を竦める圭子に、理穂子は初めて少しだけ微笑んだ。
「子どもたちの、声がするなぁって思ったの」
理穂子は再び、窓の外へ視線を移して呟く。
「ああ、向かい側が保育園だからね。お陰で昼間は煩くって適わないけど」
「あんたなんか、毎日子どもに囲まれてるじゃない。たまには離れたいと思わないの? 休みの日まで子どもの声に反応するなんて、私には理解できないわ」
昔から“子ども嫌い”を自称している圭子だが、その実、彼女は年の離れた弟や妹が大勢いる大家族の長女で、厳しいながらも“小さな母親”として、幼い時から兄弟の面倒を良く見てきたことを理穂子は知っている。表現がぶっきら棒なだけで、本当は人情に熱いそんな圭子の性格に、健吾が惹かれていった気持ちも良く理解できた。
「さて、あんたが相手してくれないなら、私も一人で自分の仕事に没頭するとしますかね」
ヨイショ――の掛け声とともに、圭子はもうかなり大きく目立つようになってきたお腹を抱え込むようにして、壁に背中を預けて座った。
傍らに置いた裁縫道具を引き寄せて、大きな腹の上でぎこちなく針を動かしている。
「……それは?」
「“おくるみ”よ。暇に任せてやり始めたら、意外にハマッちゃってね」
ペロリと舌を出しながら、圭子が笑う。
「お裁縫、あんなに苦手だったのに……」
「その節は、色々とお世話になりました」
改まった口調で圭子がふざけて頭を下げる。
小学校の家庭科の授業では、不器用な彼女をさおりと二人で何度となく助けてやったものだった。
「母は強しでね、何でもやるって決めたのよ。“おくるみ”一つだってそう。何でも買えるほど、甲斐性のある旦那じゃないしね」
そう言いながら、圭子のそれが照れ隠しであることを、長い付き合いの理穂子には分かっていた。生まれてくる子に手作りのものを用意してやりたいのだ。針を動かす圭子の表情は優しく穏やかで、それは彼女の少女時代を知っている理穂子にとって、初めて見る“母”としての圭子の姿だった。
しばらく静かな時が過ぎ、向かいの保育園も午睡の時間に入ったのか子どもたちの声が止んだ。
理穂子は知らぬ間に、窓辺でうたた寝をしていた。
不意に眼が覚めて圭子の方を見てみると、彼女はまだ一心に針を動かしていた。
「……それ、何?」
まどろみから覚めたばかりの理穂子の目に、裁縫セットの横にピッタリと寄り添うように置かれた、銭湯でよく見かける黄色い洗面器が映った。
目にも鮮やかなその安っぽい黄色は、理穂子が眠る前には確かに無かったものだ。
「ああ、これね」
圭子は手を止めて洗面器に視線を落とすと、気のせいか眉間に皺を寄せて言った。
「悪阻が酷いのよ。隣りの家の昼御飯の匂いでも吐きそうになっちゃって。慌てて持って来たの。最近じゃ常に傍らにコレよ」
圭子の言う通り、開け放した窓越しに、隣りの家から魚の焼ける匂いが伝わってくる。脂の乗ったその匂いは、理穂子の胸も不快に詰まらせた。
「分かるよ、いつも車に揺られてる気分だよね」
思わずそう呟くと、圭子はキョトンとした顔をした後、急にプッと吹き出した。
「やだなぁ。何であんたがそんなこと分かるのよ」
理穂子はハッとしたように慌てて口を噤む。
「……保育園のお母さんたちに聞いたのよ。毎日そんな人を見てるから、つい自分が体験したみたいな気持ちになってたの」
苦い笑いを零して目を背ける理穂子の気持ちに、圭子が気付く筈もなかった。