(14)
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「また、俺を殺しに来たの?」
早川は、胸を汚す血の痛みに表情を歪めることもなく、理穂子に言った。
また?――
震える理穂子の手首を握りこんだまま、早川はゆっくりと身体を起こした。パジャマに染み込んだ薔薇が、一筋の線を描くように早川の下腹に伸びてゆく。
「俺も、連れて行くつもりだった。ねえ、そうだろう?」
胸を押さえていた早川のもう片方の手が、理穂子の色を失った頬に触れた。至近距離で目を合わせると、理穂子の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「嬉しいよ」
早川は、ハッキリとした口調で言った。
嬉しい――
理穂子は意味が分からず、早川に触れられたまま涙を流し続けた。
「昔ね、一人のお姫様がいたんだ」
早川は理穂子から目を逸らすことなく、淡々と言葉を紡ぐ。
「一人の王子を愛しすぎた、哀れなお姫様が。お姫様は、白い搭に閉じ込められている間に、王子はとっくに、別の女を好きになっていた。いや、違う。本当はお姫様をもらう前から、王子には好きな女がいたのさ。身分違いで結婚できなかったその女を愛し続けるには、頭の弱い綺麗なお姫様を奥方として迎えるのが最適だったんだ」
早川の表情は変わらない。むしろ、穏やかな笑みさえ浮かべていた。しかし、理穂子の手首を握る力はどんどん強くなる。
「王子様はね、白い搭にお姫様を幽閉して、随分長い時間、お姫様を騙すのに成功したよ。サルビアの花を贈られるくらいで、王子様の愛を信じて疑わないような、馬鹿なお姫様だったから。だから、自分が愛されていないと気づいた時、お姫様の小さな世界も終わった。長い間見続けた夢の代償は、お姫様一人には背負いきれないほど、大きかったんだ」
***
それは、嵐の晩だった。
こんな夜には、美紗緒が心配だ――そう言って、『母さん』は嵐の中を出て行った。
つい先日、狂乱して家に押し入り、サルビアの花をメチャメチャに散らせていったお姫様を心配しての行動だった。
『母さん』が出て行ってから、雷の音に怯えながら布団を被って寝てしまった俺は、真夜中に玄関の開く音で目が覚めた。
外は相変わらずの雨と風で、窓ガラスをガタガタと不気味に揺らしていた。
『母さん』が帰ってきたと思いホッとした俺は、再び布団の中にもぐりこみ、目を閉じた。
暫らくすると、ミシミシと階段を登る音が響いて、俺の部屋の前で止まった。そのまま、ドアが開く音。
開け放されたドアの方から、外の湿った雨の匂いが流れてきた。
俺は顔を上げようと思いながらも、眠気には勝てず、その足音が近づいてくるのを夢現の中で聞いていた。
やがて、俺の頬に、ポタリと冷たい水滴が落ちた。
片目を上げて水滴の先を見上げると、そこには全身濡れねずみになったお姫様が、俺を見下ろしていた。
水分を含んで重くなった腰まで伸びた長い髪が、俺の首を絞めるようにまとわりついている。
いつもの優しいお姫様とは違う、悪鬼のようなその有様に、俺は魔法をかけられたように動けなくなった。
「……お、ひめ……さま?」
ようやく絞り出した声の先で、お姫様の手に握られた銀色のナイフが、鈍い光を反射した。
「何……してるの?」
絞り出した俺の声は、みっともないくらいに掠れていた。窓の外で光った稲妻が、お姫様の顔を一瞬映した。
それは、もう『お姫様』などではなかった。
瞳孔が開いたような血走った目で俺を見下ろし、病的に痩せこけた頬に濡れた髪を張り付かせ、閉まりなく呆けた口の端からは唾液を垂らしながら、お姫様は両手に持ったナイフを振り上げた。
「やめてっ!」
「美紗緒っ!」
俺の悲鳴と、その女の声はほぼ同時だった。
戻ってきた『母さん』が、僕の部屋のドアの前に立ち尽くしていた。
一瞬、動きを止めたお姫様に『母さん』は体当たりするように挑んで行った。バランスを崩したお姫様が、俺のベッドの上に奇声を上げながら倒れこむ。
「美紗緒っ! 止めなさい。洋介よ。この子は、あんたの息子の洋介! 惣介さんじゃないわっ!」
ベッドの上を悪鬼のような顔をして転げ回るお姫様にのしかかるようにして、骨と皮ばかりの痩せギスの『母さん』は、今尚俺の命を脅かそうとしているお姫様の、手の中のナイフを離そうと必死だった。
「あー! あーっ、あーっ!」
「美紗緒っ!」
その時だった。
暴れるお姫様の手の中のナイフが、何かの魔法のように、スッと音もなく『母さん』の胸に収まった。
時間が止まる。
何が起きたのか分からない。
ナイフは、元からそこにそうしてあったとでも言わんばかりの自然さで「母さん」の胸に突き刺さっていた。
「……か、母さん?」
あまりにも静かなその空間に、最初に手を伸ばしたのは俺だった。安い映画のスローモンションのように、そこにいる三人が三人とも、この陳腐な芝居のオチを着けかねている、そんな妙な感覚が俺を支配していた。
早く終わらせなくちゃ。
馬鹿みたいな悪夢。
『母さん』の胸のナイフ。
危ないなぁ、もう。
冗談だよって言わなくちゃ。もう、お芝居は終わりだよ。真に迫った演技だったね。お姫様、もしかして女優に向いてるんじゃない?
だけど、両手を打ち鳴らして劇の終幕を告げても、誰もその芝居を止めなかった。
止めてくれなかった。
やがて、『母さん』はゆっくりと崩れ落ちた。
ベッドで呆けているお姫様の上に、上半身を折り曲げて、真っ赤な薔薇が咲いた胸から倒れこんでいった。
「……あ……あ、あ……」
お姫様の雨に濡れた白いネグリジェも、『母さん』の薔薇を吸ってもう一輪、滲んだ花を咲かせる。
「……姉さ……ん」
お姫様は、ほんの一瞬正気に戻った目をして、もう息をしていない『鉄の女』――俺の『母さん』の肩を掴んだ。