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炎の中へ  作者: 春日彩良
第7話【烽火(ほうか)】
52/85

(12)



***



 罠だ。

 不意打ちの。



 シーツを噛みしめ目の端から涙を零しても、身体が感じる以上の激痛を心に刻まれる、この世で一番残酷な罠だ。

 罠に落ちて血を流しのた打ち回る自分を、あの男は上から見下ろして嘲笑っているんだと思っていた。

 自分は傷一つ負わず、余裕の笑みを浮かべて、傷ついた自分を眺めて楽しんでいるのだと。

 いっそ、そうであれば良かったのに。

 そうしたら、何も迷わず、あの男への憎しみだけで立っていられたのに。

 立ち尽くすあの男の足元に歯を立て、引きずり倒すことに躊躇などなかったのに。

 どうして、同じ痛みを分かち合おうとするのか。

 あの男はいつもそうだった。

 私をめちゃくちゃに痛めつけながら、自分も好んで血まみれになった。

 私が追った傷以上の傷を自分で自分に刻んで、これ以上ないほど幸せそうに微笑んだ。

 それに気がついた時、罠は完成された。

 囚われて、抜け出せない。

 何も知らずに蹂躙されていた少女の頃の方が、心はよっぽど自由でいられた。

 純粋な憎しみが、心を支えてくれていた。

 あの男の傷になど、気づきたくなかった。

 それは私を癒すどころか、より深い傷となって心の深淵を抉るのだから。



***



 理穂子は隣で横たわる早川の裸の胸を見つめていた。

 浅い呼吸に伴って、鍛えた胸板が規則正しく上下する。

 事の終わりに、こんな風に冷静に早川に視線を向けられる自分を、理穂子は心の中で嘲笑した。

 初めてこの胸に抱かれた時、理穂子はまだ十四歳だった。

 中学二年生、急遽部活がなくなり早く帰宅した理穂子を、その年の秋に再婚し新しく兄になるという早川洋介が、一人待ち構えていた。

 祖父母も母も出かけていて不在であるのに、新しく家族になるとはいえ他人の早川が一人上がりこんでいるのが理穂子には引っかかったが、紳士的な笑顔で、用があって理穂子の家に寄ったら、少しの間留守を頼まれた説明する早川に、それ以上疑問は持たなかった。

 早川と二人きりの家の中は、静か過ぎてお互いの鼓動と呼吸の音しか聞こえないような、不自然な静寂に包まれていた。

 会話もなく張り詰めた均衡を破ったのは、早川の方だった。

 何の説明も、弁解も、労わりもなく。

 意味など何もないように。

 早川は簡単に理穂子の手を引いた。

 そして、理穂子は簡単に落ちたのだ。

 抵抗する術も知らぬ間に。

 早川の腕の中、一生囚われて抜け出せない、牢獄に。



***



「泣いてるの?」


 ふと気づけば、眠っていると思っていた早川が目を覚ましてこちらを見ていた。

 理穂子は言われて初めて、自分の枕が濡れていることに気がついた。

 しかし、早川にそれを悟られるのが嫌で、シーツの端で乱暴に涙を擦った。


「赤くなってる」


 早川はそう言うと、理穂子の目元に人差し指を伸ばした。

 男にしては華奢で細長い指だ。早川は器用に理穂子の目の端に残った涙の雫を拭い取った。


「……私は、泣いたりしない」


 憎憎しげにつぶやく理穂子に、早川は少し寂しそうに笑った。


「今までにいっぱい泣いたからね」


 俺のせいか……そう言って肩をすくめるこの男を、理穂子は心底憎いと思った。


「君は、泣いてばかりいたね」


 早川は寝返りをうって、頭の後ろで手を組むと天井を見上げた。



 ただ泣くことしか出来ない幼い少女。

 早川の理穂子に対する想いはそれだけだったはずだった。

 復讐の矛先として選んだ、この少女を、自分は一体いつからこんなにも愛するようになったのだろうか。

 理穂子の無知と弱さは、自分にとって恰好の餌食だった。

 何も非のない幸せに満ち溢れた少女を、あの日自分は蹂躙した。

 何の前触れもなく、何の意味も与えることなく。

 欲望ですらない。

 痛めつけられる意味も分からぬままに、理穂子は泣きじゃくった。

 その日から何度も何度も繰り返し、理穂子を抱いた。

 理穂子が誰にも相談できぬことも全て計算ずくだった。

 自分がされることの意味を与えてやることさえ拒んだ。

 何もかもが、全て意味のないこと。

 傷つけられる理由のよりどころなど、与えてやるものか。



 お前に、意味などないんだよ。

 あの人に、意味などなかったように。


  

 だが、そんな状況の中でも、理穂子が少女らしい恋をしていることにも気がついていた。

 部下に調べさせた理穂子の恋の相手は、まだこの街に越してくる前、理穂子がまだ父親の元で暮らしていた時からの幼馴染の少年だった。

 後をつければ、喫茶店で楽しそうに少年と談笑する理穂子の姿を目にした。

 自分との地獄のような関係を結びながらも、理穂子は決して汚れないことを見せ付けられた気がした。

 少年のために男物の手袋を編む理穂子が憎らしかった。

 少年の母親が不幸な事故で死に、少年が理穂子の前から姿を消したことを知った時、また一人で残された理穂子に暗い満足感を覚えたのと同時に、心のどこかで安堵したのも事実だった。

 理穂子は、俺の籠の鳥だった。

 誰にも触れさせず、痛めつけるのも、気まぐれに慈しむのも俺の気持ち一つだった。

 吐き気がするほど憎んだ父親とそっくりの生き方を俺もなぞっていた。

 そんな時、理穂子が俺の子どもを身ごもった。

 高校二年生の終わり……。

 友はみな将来の進路を決めるような時期であり、何もしなくても、若さがキラキラと輝きを放つような年頃だった。

 その中で、理穂子だけが突然の闇に八方を塞がれた。

 俺が仕組んだ、巧妙な罠にはまって。




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