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炎の中へ  作者: 春日彩良
第7話【烽火(ほうか)】
51/85

(11)



***



 パーンッ!!



 乾いたピストルの音とともに、陸上部員達は一斉に100メートルのコースに吐き出されて行く。

 三年生が引退した後の秋、まだ残暑の厳しさが残る放課後のグラウンドで、新しく部を引っ張ることになった中学二年生の理穂子たちは、張り切って練習に励んでいた。


「斉木、お前いいタイム出すようになったな。この分じゃ、新人戦かなり期待できるな」

「はい、頑張ります!」


 顧問の教師の言葉に、肩まで届くか届かないかの薄茶色の髪を一つにまとめた理穂子は、ダッシュの後の大きく波打つ胸を押さえながら元気良く返事をした。

 絶好調で何本かスタートダッシュの練習をしているうちに、今までカラッと晴れ上がった秋の青空が、見る見る東の空から雲行きが怪しくなってきた。


「おーい、雨が降る前に上がるぞ!」


 顧問の一声に、理穂子たち部員は少し早めの帰り支度を始める。

 理穂子が等間隔に置かれたハードルを両肩に一つずつ引っ掛けて立ち上がろうとしたとき、ついに雨粒がポツリと理穂子の頬を打った。


「あ! 振り出した!」


 グラウンドのあちこちで悲鳴が上がる。

 一つ大きな雨粒が落ちた後は、まるで堰をきったようにあっという間に土砂降りの雨が降り注いだ。

 部室棟まで走る間に、理穂子たちはあっという間にずぶ濡れになった。


「ひー、まいった」

「理穂子、あんた傘持ってる?」

「持ってない。私自転車だから、ダッシュで帰るよ」


 濡れた練習着をぬぎながら大騒ぎする部員でごった返した部室を、理穂子はいち早く抜け出した。

 雨宿りするという手もあったが、折角部活が早く終わったこの貴重な日を、雨宿りごときで潰してしまうのは勿体ない。

 どうせここまで濡れているのだから、今更家に着くまでに濡れたって変わりない。幸いまだ空気は暖かく、すぐに帰ってシャワーでも浴びれば、風邪を引くほどのことでもないだろう。


 理穂子は部室裏に止めてあった自転車に跨ると、勢いよく校門を飛び出して行った。

 校門を出てから大通りに入るまでには、小さな信号が一つある。

 赤を灯すその信号の前で止まると、ツイてないなぁと理穂子は軽くため息を吐いた。

 自転車を漕ぐのをやめた理穂子の肩には、今まで後方に吹き飛ばしていた雨の雫が遠慮なく理穂子を濡らして行く。


 その時、スッと音もなく自分の横に大きな外車が止まった。

 ピカピカに磨き上げられたその高級外車は、この近所で拝めるような代物ではなく、理穂子はマジックミラーになったその窓に、濡れねずみになった自分の姿を映して思わず肩をすくめた。


 母が離婚して実家のあるこの街に越してくる前は、卸問屋の一人娘としてそれなりに裕福な暮らしをしていた理穂子だったが、それでもこんな高級外車を乗り回すような身分ではなかった。

 きっと一生自分には縁のない世界の代物であろうそれを、好奇心も手伝って横目でチラチラと見ていると、不意に後部座席の窓が静かに下がった。

 ギョッとした理穂子が思わず掴んでいたハンドルのバランスを崩し転びそうになると、後部座席に座っていた男は窓から身を乗り出し、理穂子の自転車を支えてくれた。


「あ! す、すみません」


 理穂子はがチラチラ見ていたことがばれたのではないかと、真っ赤になって俯くと、男は笑いながら言った。


「いや、こちらこそ、驚かせてしまって悪かったね。大丈夫?」


 仕立ての良いスーツに身を包んだ男は、後部座席の扉を開けて車の外へ出てきた。

 男の高そうなスーツの肩が、容赦なく雨粒で濡れる。


「ずぶ濡れだね、部活の帰り? 汗をかいたあとにこんな雨に濡れたら、風邪を引くよ」


 理穂子が何も答えないうちに、男は車の中から洗いたてのタオルを取り出し、理穂子の頭の上に放った。

 洗剤の匂いに混じって、微かにだが男の身体から発せられるのと同じ香りがした。



 甘いムスクの香り。



 理穂子の父の智之も香水をつけるような男ではなかったので、理穂子は生まれて初めて嗅ぐ芳香に頭の芯がジンと痺れるような感覚を受けた。


「……あ、すみません」


 理穂子は正気を取り戻して、慌てて手にしていたタオルを男に返そうとした。

 男は両手を軽く上げて、それを受け取らないポーズをとって笑った。


「君にあげるよ。傘の代わりにはならないけど、被っていけば少しは濡れなくてすむんじゃない?」


 理穂子は赤くなって俯くと、軽く会釈を返して自転車のペダルを強く踏んだ。

 信号はいつの間にか青に変わっていた。

 気恥ずかしさから素早くその場を立ち去った理穂子の後姿を、男は雨に打たれた肩も気にせずに、じっと見送っていた。

 口元から笑みは消え、代わりに冷たい光が目の奥に宿る。


「……洋介様、今の方が……」

「言われなくても、分かっているさ」


 男の声は冷たく、アスファルトを叩く雨の音に吸い込まれて消えた。





 あの雨の日が、理穂子と早川洋介の初対面の日だった。

 雨の中、仕立てのよいスーツの肩が濡れるのも構わずにタオルを放った男と、理穂子は思いがけず、すぐに再会を果たすことになる。


 小学校六年生で父の故郷を飛び出してきた理穂子たち母子は、理穂子の母の実家に身を寄せていたが、母はある日突然に「再婚する」と言って見知らぬ初老の男と若い男を連れてきた。

 母がそんなことを言い出す少し前、もともと華美に着飾らなくとも少女のように美しかった母が、薄化粧を施し出かける機会が多くなった。

 それでもまさか、母が簡単に「再婚」を口にするとは、理穂子には思ってもみないことだった。 


 止むにやまれぬ事情で父の智之と別れた母だったが、理穂子は未だに母は智之を愛しているのだと何の根拠もなくても信じている節があった。

 しかし、降って沸いたような「再婚相手」を伴って現れた母は、これまで理穂子が見たこともないほど、幸せそうな表情を浮かべていた。


 事業をしていた理穂子の祖父母の会社と取引があったという惣介は、理穂子の母がまだ幼い頃からこの家に出入りし、理穂子の母の成長を見てきたということだった。


「お母さんの若い頃によく似ているね」


 そう言って目を細めた惣介は、一代でありあまる財を成した、冷徹な企業家ではなく、まるで初恋を知ったばかりの少年のような、恋に酔ったような目で理穂子を通して昔の母の面影を追っていた。

 母もそんな惣介の言葉に頬を染める。

 理穂子は母が智之意外にもこんな表情を見せることを、初めて知った。


「今日から君の兄になる、洋介だ。十三も年が違うから、話し相手にはならないだろうけど、仲良くしてやってくれよ」


 そう言って紹介されたのは、紛れもなくあの雨の日にムスクの香りを立ち上らせながら、理穂子にタオルを貸したあの男だった。



 理穂子の心臓が、またゾクリと粟立つ。

 穏やかな笑みを浮かべ手を差し出す男に、理穂子はなぜか自分の右手を差し出すことを躊躇した。

 今思えば、この時すでに予感があったのかもしれない。



 囚われる、予感が。

 これからこの男と堕ちていく、深い闇と狂おしい痛みばかりの恋の予感が。




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