(10)
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「昼間はあんなに晴れていたのに……」
高層ビルの最上階、VIP専用のスイートルームの窓から都会のネオンの海を見下ろしながら、早川は荒れ狂う風の音を聞いていた。
ビルの隙間を吹きすさぶ風は、人間の悲鳴のように、細く長く哀れな声音を響かせる。
「君は雨女ならぬ、嵐女?」
振り返った早川は、年齢に似合わぬ幼い笑顔を浮かべる。
普段は男性用へアートニックでバックに撫で付けた髪を、シャワーの後はさらりと前髪をたらしている。
そのせいで、風呂上りの早川は、いつもまるで理穂子と同世代かそれ以下の少年のように見える。
それがまた、理穂子の胸を締め付ける。
理穂子はベッドの端に軽く腰掛けたまま、忌々しげに窓辺の早川を睨みつけた。
「そんな怖い顔しないでよ。理穂子に会う時はいつも嵐だったなぁって、思っただけ」
早川は屈託なく笑うと、また荒れすさぶ街の様子に目を移した。
「初めて会った時も、嵐だった」
覚えてる?
そう尋ねるように、早川はガラス窓に映った視線越しに、理穂子に向かって首を傾げる。
理穂子は舌打ちをすると、ギュッと手元のシーツを握り締めた。
覚えているか、なんて。
どんな恥知らずな顔をして今更尋ねてくるのか。
忘れられる筈がなかった。
自分は初めてこの男に会った時から、囚われていたのだ。
どんなに抗っても抗っても、自分の意思さえも押し流して、運命はこの男を連れてきた。
嵐とともに。
理穂子に逃げる術などなかった。
今日のように、墓参りの後、実や葵を早川の自宅に送り届けた後、なじりながらもホテルに誘う早川の後を付いてきてしまった。
この男が寂しそうな顔をするのは、狡猾さ故なのだと気づかないわけではない。
理穂子を意のままに操るための作戦で、自分はまたしても体よく遊ばれているだけなのだと。
それは、理穂子の自尊心をズタズタにするのに十分な仕打ちであるのに。
分かっている。
分かっているのに。
なぜ今なお自分はこうして、都会から遠く離れた天上の隠れ家で、この男と向かい合っているのだろうか。
「シャワー浴びてきたら? シーツまで濡れちゃうよ」
早川が苦笑しながら理穂子が腰掛けているベッドを指差す。
確かに、このホテルに逃げ込む前に雨に降りこまれた理穂子と早川は、全身濡れねずみになっていた。
早川はいち早くシャワーを浴びたが、理穂子は頑なにベッドにへばりついていた。
春はまだ遠いこの時期、雨で濡れた身体は徐々に冷えてきて、やせ我慢をしていても、理穂子の唇は色を失ってきていた。
「風邪引くよ、ほら」
見かねた早川が自らの首にかけていたタオルをとって、理穂子の濡れた頭に乗せる。
咄嗟に振り払おうとしたが、それより早く、早川がタオルの両はじを持って、理穂子の頭をすっぽりと覆った。
間近に近づいた早川の顔に、無意識に理穂子の呼吸が止まる。
シャワーを浴びた後なので、あの理穂子をいつも悩ませる胸が詰まるムスクの香りの代わりに、仄かな石鹸の清潔な香りが漂ってくる。
この匂いの方が早川には似合っている――
咄嗟にそんなことを考えてしまう自分を、理穂子は心の中で大きく叱責した。
「理穂子はいつも、タオル持ってないね」
早川の瞳が優しく緩む。
「雨はいつ降るか分からないんだから、いつ濡れてもいいように準備しておかなきゃ」
そんなことできっこない。
もし、そんなマネが出来たら、自分は早川と出会う前に様々な予防線を張れただろう。
決して堕ちないように。
囚われたりしないように。
なのに……
突然の嵐のように、この男は現れた。
理穂子が濡れないための傘も、濡れた痕を拭い去るためのタオルも、用意できないうちに。