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炎の中へ  作者: 春日彩良
第3話【灯火(ともしび)】
5/85

(1)

「よーし、最後にプリント配るぞ。一枚ずつとって、後ろに回せ」

 

 終業のベルはもうとうに鳴り終わっていたので、担任教師は少し焦ったように、プリントの束を各列の一番先頭に座る子どもたちに配って回った。


「小学校最後の授業参観だからな。必ずウチの人に渡して来てもらうように。大事なお知らせだから、失くすんじゃないぞ」


 ザワザワする教室で、担任教師は精一杯声を張り上げる。

子ども達が四年生の時、大学を出たてですぐこのクラス担任になったが、早いもので持ち上がりのこのクラスももう3年目。

 

 子どもたちは小学校卒業を間近に控えていた。


「汚ねぇから、触んなよ。菌がうつる」


 前の席から、よく肥えた身体を捻って後ろの席の隆志にプリントを渡す時、伊藤健吾は指先で摘んだプリントを隆志の鼻先でヒラヒラさせて、「ウゲェー」と舌を突き出した。

 隆志が目の前でヒラヒラするプリントを掴もうとすると、健吾は「おっと」と言って、プリントを床に散らした。


「何だよ、その目は」


 健吾を睨みつけたまま、足元に散らばったプリントを拾うためにしゃがんだ隆志を、健吾はせせら笑った。


「おっと、わりぃ」


 プリントに伸ばした隆志の手ごと、健吾が踏みつける。

 隆志の手とプリントには、健吾の汚れた上履きの跡がクッキリと跡になった。

 ガタッ!


「はい、挨拶するぞ。日直!」


 思わず立ち上がり、健吾の胸倉を掴みかけた隆志だったが、担任の号令の声に遮られた。


「先生さようなら。みなさんさようなら」


「気をつけて帰れよ」


 振り向きざまにニヤリと笑って、伊藤健吾は他のクラスメートと共に教室を後にした。

 

 奥歯を噛みしめ、健吾の背中を見送る。

 手の中で、汚れたプリントがグシャリと握りつぶされていた。



     ※



 隆志が自宅の長屋に帰りつく頃には、日はもうすっかり暮れて、辺りは闇に包まれていた。

 どこかの家の晩御飯の匂いが、隆志の鼻腔をくすぐり、腹の虫をギュルギュル鳴かせる。


「ただいま」


 立て付けの悪い長屋の引き戸を開けた放した時、薄暗く埃っぽい玄関先で真っ先に隆志を出迎えたものに、隆志は落胆した。


(……まただ)


 玄関には、ピカピカに磨かれた男物の靴が、几帳面に踵を揃えて居座っていた。


「ちょっと待ってて。息子が帰ってきたみたい」


 奥の部屋からは、クスクス忍び笑いを漏らす母と男の声が聞こえてくる。

 しばらくすると、母は安物の品のない下着の上に、毛玉がたくさん付着した古びたカーディガンを引っ掛けて、部屋から出てきた。


「隆志、あんたちょっとコレでどっか行ってな」


 母は有無を言わさず、隆志の手に小銭を押し付けた。


「いやだよ!」

「つべこべ言ってないで、少しは気を利かせなって言ってんだよ」


 頑なに拒む隆志の手を無理やりこじ開けて、小銭を握らせる母の手は、心なしか汗ばんでいて、隆志に本能的な嫌悪の感情を呼び起こさせた。


「しばらく、帰ってくるんじゃないよ」


 ピシャン!

 鼻先で、容赦なく扉が閉められる。

 乱暴な音に反射的にギュッと目を閉じてしまう。

 ゆっくりと目を開けた時、長屋の扉は完全に閉じられ、隆志は凍てついた寒空の下へ、たった一人閉め出されていた。


 鼻をすすりあげながら、隆志は長屋の裏手に回った。

 母が無理やり握らせた小銭では、夕飯らしい夕飯も買えはしない。何より空腹で、もう離れた店まで歩く気力もなかった。

 

 ズルズルと地べたに座り込む。

 冬でも半ズボンからむき出しの膝や肘は、カサカサにひび割れて粉をふいていた。

 ガチガチと歯が鳴るのを何とか抑えようと、自分の骨ばった身体をきつく抱きしめるが、効果はなかった。

 窓からは明かりとともに、母の睦言の声も微かに漏れている。

 

 今夜の男は、客じゃない……


 その位は、隆志にも分っていた。

 耳を塞ぎ、隆志は闇の中で、一人小さくうずくまった。



     ※


 6年生の教室には、黒板の前に金網で囲ったストーブが置いてあり、子どもたちはその上に、いつも持参した弁当を乗せて暖めている。

 昼前は、色とりどりの弁当箱で埋め尽くされ、賑やかなストーブの上も、昼休みの終了と共に寂しくなる。六限目を終えて帰りのHRを残すのみとなった教室では、すっかり小さくなった火を囲んで、数名の女子がおしゃべりに興じていた。

 

 その中には、斎木理穂子の姿もあった。


 担任教師は帰りのHRで配布する資料を取りに、職員室へ戻ったきり、なかなか戻って来なかった。

 始めは大人しく座っていた子どもたちも、次第に席を立ち、思い思いの場所にグループを作って陣取ると、話をしたり、突き合ってふざけあったりしていた。


 大人のいない冬の放課後の教室は、卒業間近の子どもたちの高揚と倦怠をない交ぜにして、どことなくけだるい空気に包まれていた。


「ねぇ、理穂子はサイン帳誰に渡すの?」


 お下げ髪の長田さゆりは、額に出来たニキビを気にしながら、隣でストーブに手をかざす理穂子に、そっと尋ねた。


「クラス全員よ」

「そうじゃなくってー」


 キョトンと答える理穂子に、さゆりはじれったそうに言った。


「ト・ク・ベ・ツ、なサイン帳だよ」


 さゆりが身をくねらせながら「ト・ク・ベ・ツ」と強調する様子が可笑しくて、理穂子の対面でストーブに当たっていた萩原圭子が思わず吹き出した。


「何、それ。さゆ、気持ち悪ッ!」


 つられて、理穂子もクスクスと笑い出した。


「何よ、理穂子まで。分ってないなぁ。私たち、もうすぐ卒業なんだよ。あんたたちはいないわけ? 卒業前に思い出を残したい、大切な人」


 理穂子と圭子はさゆりの言葉に顔を見合わせた。


「さゆは、いるの?好きな人」

「教えなーい」


 立場逆転だった。

 さゆりはなぜか勝ち誇ったように胸を張り、いつもは気にしている少々天井を向いた小さな鼻をツンと上げて、すました顔をしてみせた。


「教えなさいよ、誰なのよ!」


 ストーブの向こうから、男勝りの圭子が手を伸ばして、さゆりのセーターの袖を掴もうとする。

 さゆりは身を引いてそれをかわすと、悪戯っぽい目を輝かせて、圭子とストーブの周囲をクルクル回り、追いかけっこを始めた。


 キャーキャー言いながら追いかけっこをする二人に盾にされて、理穂子は苦笑いを浮かべながら二人をたしなめた。


「やめなよ、二人とも。ストーブの周りでふざけて、先生来たら怒られるよ」

「だって、理穂子、さゆが白状しないから」

「圭子はガキなのよ」

「はぁ?あんたに言われたくないわよ」

「はいはい、もうおしまい」


 理穂子は二人の間に割り込んで、自分より背の高い二人の肩をポンポンと叩いた。



「特別なサイン帳の話はひとまず置いておいて、二人とも、先に私のサイン帳に書いてくれない?二人は、私の「トクベツ」でしょ?」

「理穂子~」


 そんな風にニッコリと微笑まれたら、男子でなくとも、逆らう気になんかなれない。

 理穂子は人の心を掴むのがうまかった。


 教室の一番後ろの理穂子の席に移動して、さゆりと圭子は理穂子からサイン帳の紙を一枚づつ手渡された。


「可愛い! これ、どこで買ったの?」


 ピンク色のウサギが跳ねるイラストがプリントされたサイン帳を見て、さゆりが歓声を上げた。


「パパが東京に商品の買出しで出張した時に、買ってきてくれたの」


 理穂子が説明すると、さゆりは心底羨ましそうに頷いた。


「いいなぁ、理穂子のパパは。若くてカッコいい上に、こんな可愛いものまで買ってきてくれるなんて。はぁ、うちの親父と取り替えたいよぉ」


 さゆりは左官屋をしている職人気質の頑固一徹な自分の父親を思い出し、深いため息をついた。


「ああ、可愛いなぁ」


 よほど理穂子のサイン帳が気に入ったのか、さゆりは渡された紙を大事に手の中で包み、みとれている。


「そんなに気に入ったんなら、もう一枚あげるよ」

「え? ホント!?」


 理穂子の言葉に、さゆりの顔が一瞬でパッと輝いた。


「さゆ、あんた、でもそれ一枚は理穂子に書いて渡さなきゃダメなんだよ。折り紙みたいに溜め込んでたら、意味ないじゃん」


 圭子にからかわれて、さゆりは口を尖らせた。


「分ってるよぉ」

「ふふ…卒業式までにお願いね」


 理穂子は笑いながら、さゆりのためにもう一枚サイン帳の用紙をバインダーから取り外して、手渡してやった。


「おい、お前ら、何やってるんだよ」

 

 その時、楽しげにはしゃぐ理穂子たちを見ていた伊藤健吾が、突然、三人の輪の中に入ってきた。


「何でもないよ。伊藤には関係ないじゃん」


 気の強い圭子が、真っ先に健吾に喰ってかかった。

 いつもからかわれて、泣かされているさゆりは、眉をひそめて理穂子の袖を掴んだ。


「萩原には聞いてねぇよ。斎木、それ何だよ?」


 健吾は圭子を押しのけて、理穂子の前にズイッと突き進んだ。


「理穂子ぉ」


 さゆりは今にも泣き出しそうだ。


「サイン帳だよ。卒業の思い出に、みんなに書いてもらおうと思って」


 理穂子は、健吾の丸々太った顔の肉に埋もれた、小さくて眼光の鋭い目を見ても、全く動じずに、いつものようにニッコリと微笑んで答えた。


「サイン帳?」


 健吾の眉がピクリと動いた。


「斎木の?」

「そうだよ」


 すると、健吾は口の中で何事かモゴモゴ呟いたかと思うと、急に耳を真っ赤にして、うつむいた。


「……くれよ」

「え?」

「……俺にも、書かせてくれよ!」


 拳を握り締めて一気に叫んだ健吾に、クラス中がギョッとして振り返った。

 さゆりと理穂子、圭子はお互いに顔を見合わせた。


「何言ってるの、あんた。あんたなんかに書いてもらうサイン帳なんかないわよ」


 圭子が呆れたように言うと、健吾はムキになって答えた。


「何だよ、別にいいだろ!お前のサイン帳に書くなんて言ってないんだから。卒業の思い出なら、俺が書いたって、別にいいじゃんか!」


 いつもの傍若無人な健吾からは想像も出来ないほど、顔を赤らめてうろたえながらも、健吾は救いを求めるように理穂子を見た。


「いいよ。最初から、クラスみんなに書いてもらう予定だったから」

「ちょっと、理穂子」


 肘で小突くさゆりに「いいの」と目配せすると、先ほどさゆりに渡したように、理穂子は健吾にも、一枚サイン帳を手渡した。


健吾はそれを受け取ると、鼻の下を擦りながら、思わずほころんでしまいそうになる口元を必死に引き締めつつ、不自然にカクカクした足取りで、自分の席に戻った。

 

 健吾と理穂子たちの一連のやり取りを見ていたクラスメイトたちは、らしくない健吾の様子を唖然として見送っていたが、健吾が自席に着くやいなや、今度は理穂子の元に殺到した。


「私にも書かせて!」

「何だよ、俺が先だよ」

「交換だよ、理穂ちゃんも私のに書いてよ」


 理穂子の席の周りは、あっという間に人だかりになった。


「みんな、順番だよ。そんなに焦らなくてもクラス全員分あるって。ね、理穂子」


 はしゃいで押し寄せる人波を制しながら、圭子が理穂子を振り返る。 理穂子はただ笑いながら、ピンク色のサイン帳を気前よくみんなに配っていた。


 隆志はそんな様子を尻目に、一人、理穂子とは遠く離れた自分の席で、丸くなった鉛筆の芯を削ることに意識を集中させていた。

 


 ガタッ……


 

 突然の振動で手元が大きく狂い、軽く指を切った。


「ッつ」


 前の席の健吾が、思い切り椅子を後ろに引いて立ち上がったせいだ。

 健吾は隆志を見向きもせずに、先ほど手に入れたばかりのサイン帳を持って、真っ直ぐに、ようやく人だかりが捌け始めた理穂子の席に向かった。


「斎木、失敗した。もう一枚くれ」

「は?バカじゃないの、あんた。理穂子、やることないよ。一人一枚だよ」

「しょうがねぇだろ。わざと失敗したんじゃないんだから。斎木、もう一枚くれよ」

「あんたね!」

「圭子、いいよ」


 放っておけば掴み合いでもしかねない二人を見て、理穂子は最後に一枚残ったサイン帳を健吾に手渡した。


「大事に書いてね。私の大切な思い出になるものだから」

「……うん」


 理穂子の言葉にはしおらしく頷く健吾を睨みつけながら、圭子は溜息をついた。


「あーあ、最後の一枚あげちゃった。勿体ない。しかも、伊藤なんかにさ」

「うるせぇよ!お前のサイン帳には、金もらっても書かねぇよ!」


 舌を出して圭子に大きくアッカンベーをした後、健吾は理穂子からせしめた二枚目のサイン帳を高々と掲げて、自分の席に戻っていった。


「あいつ、本ッ当にムカつく!」

「でも、理穂子、これでクラス全員に配れたよね」


 怒りが収まらない圭子の隣で、さゆりが言った。


「……そうだね」


 理穂子はほんの少し顔を曇らせて、空になったサイン帳のバインダーをパチンと閉じた。





 ガコンッ!!



 またしても机が大きく揺れて、先ほど切った指を口に咥えていた隆志は、今度はその衝撃で思い切り自分の喉を突いてしまった。


「……うっ!」


 振り返った健吾は、今初めてその存在に気がついたというように隆志を見て、涙目になって咳き込む隆志を怪訝な顔で見つめた。


「何だよ?」


 健吾は自分の手の中のサイン帳を隆志が見ているのに気がつくと、サッとそれを後ろ手に隠した。


「見てんじゃねぇよ!」


 乱暴に席につく健吾の頬は、赤く染まっていた。



(ああ、そういうことか……)



 隆志には分ってしまった。


 健吾は理穂子からもらった二枚目のサイン帳を、折れないようにそっとノートの間に挟んで、勉強道具よりも、メンコやベーゴマがそのスペースの大半を占める机の引き出しの奥に、大切にしまった。

 ピンクの色彩がノートに挟まれ、健吾の机の奥にしまわれる様を、隆志はただ見ていた。


 自分の手元には何もない。

 

 隆志は黙って、自分の何も持たない手を見つめ、まだ血が滲むその指を、静かに口に咥えた。

 そのままそっと席を立ち上がると、誰にも気づかれずに教室を後にした。



 

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