(9)
「奥様! 奥様、しっかりしてください!」
金切り声を上げる家では古株の家政婦が、腕に真っ青な顔で横たわるお姫様を抱いていた。
「……美……紗緒さん?」
お姫様は口の端から泡を吹き、完全に血の気を失っていた。
すぐ側で、舌打ちする声が聞こえ、俺は驚いて振り返った。
そこには、今日お姫様を喜ばせるはずの張本人、お姫様に幸せを与えられる唯一の男が立っていた。
「……父さん?」
俺が見上げていたことに気がつくと、父は苦々しい顔をして踵を返した。
ドアを閉めて二階へと消えていく足音を、俺は呆然と聞いていた。
その時、強く腕を引かれ、俺は体勢を崩しその場に横すわりになった。
「……美紗緒に、何を言ったの?」
俺の腕を強く掴んだ母は、厳しい表情で俺を見つめた。
「何って……サルビアのことだよ! だって、美紗緒さん、すごく楽しみにしてたじゃないか! ずっと待ってたのに、これ以上待たせるなんて可哀想じゃないか。父さんが、プレゼント用意してるよって、早く知らせてあげたかったんだ」
叫ぶうちに、俺は知らずに涙が溢れてきていた。
そんな俺を見て母親は深いため息を吐くと、掴んでいた俺の腕をそっと離した。
「凛子さん、救急車が来ました!」
家政婦の呼ぶ声に、母親は「今行く」と言って立ち上がり、哀しい目で俺を見下ろした。
「美紗緒を病院に連れて行ってくるわ」
短くそう告げると、お姫様を抱く家政婦と一緒に、静かに部屋を出て行った。
残された俺の肩の上に、千切られたサルビアの花びらの残骸がそっと舞って落ちた。
***
明かりの消えた病室の中で横たわるお姫様の身体からは、消毒液の匂いと一緒に、サルビアの甘い香りが漂っていた。
俺はお姫様の傍らに寄り添い、そんな俺の隣には母が立っていた。
「……何があったの?」
静寂に包まれた病室の中では、自分の声が思いのほか響いて、俺はお姫様が目を覚ましてしまうんじゃないかと心配になった。
しかし、お姫様は相変わらず深い呼吸を繰り返し、目覚める気配はなかった。
「家に、美紗緒が来たの。車を呼んで、私にも内緒でね」
母はかけていた眼鏡の淵に手をやると、心底疲れたように息を吐き出しながら言った。
「……自分への花だって、勘違いできたら良かったのに」
母のその言葉は、俺にと言うより、自分自身に向かって言った言葉の様だった。
「父さんの花は、お姫様のためじゃなかったの? 真珠のネックレスも?」
母は俺の質問には答えずに、ベッドのお姫様のタオルケットをそっと掛け直してやった。
「美紗緒は昔から、感の強い子だったから」
俺は、口から泡を吹いて倒れていたお姫様の姿を思い出していた。
そこら中に散らばった花の残骸。
髪を振り乱しながら花を千切っているお姫様の姿は、痛ましすぎてそれ以上考えたくなかった。
俺は黙って、病室を飛び出した。
家に帰れば、すっかり花は片付けられていて、いつものように取り澄ました空間が広がっていた。
俺はズンズン足音を響かせながら、父の書斎に向かった。
明かりはついているのに、父の姿はなかった。
俺は構わず書斎に入ると、父の机の引き出しを片っ端から開けていった。
サルビアの送り先を突き止めたかった。
その時、ひっくり返した机の中に収められた英和辞典の中から、ヒラリと一枚古びた写真が落ちてきた。
拾い上げたその写真の中には、髪をお下げにした高校生くらいの愛らしい少女の姿が映っていた。
薄茶色の髪の後れ毛が、うなじの辺りで踊っている。
すると、英和辞典の隙間から、もう一枚何かがひらりと落ちてきた。
グリーディングカードだった。
そこには父親の字で、こう書いてあった。
『――出産、おめでとう。女の子とのこと……きっと、あなたに似て、美しい女性に成長されることでしょう』
俺は無意識のうちに、その写真とカードを自分のポケットの中にねじ込んでいた。
理由はない。
ただ、息子の直感だった。
父の花の送り先は、この女だ。
親父が愛しているのも、この女だと。
***
白い塔の上に閉じ込められたお姫様は、哀しく寂しい鬼になった。
たった一人で、枯れ果てた花の残骸を握り締めて。
その夜は、嵐だった。
九州に上陸した台風は、関東目指して驀進を繰り広げ、庭の木々は狂ったような唸りを上げていた。
母が長年勤めてくれた家政婦と一緒になって、屋敷中の雨戸を閉めて回る。
びしょぬれになりながら、俺も必死になって手伝った。
「……こんな天気の日は」
母がうつむき、薄い唇を噛む。
「美紗緒が心配だわ」
遠くの方で鳴り響く雷鳴に俺が震え上がると、母は一瞬びっくりしたような顔をして俺を見て、それから不器用に笑った。
「やっぱり親子ね。美紗緒にそっくり。あの子も、小さい頃から雷が苦手だった。今の洋介みたいに、雷の音を聞くたびに震えてたわ」
母の骨ばった手が俺の肩にかけられ、ぎこちなく俺の肩を撫でる。
鉄の女――
そんな見も蓋もない言い方で陰口を叩かれていたこの「お堅い」女は、見え透いたリップサービスもしない代わりに、裏表もウソもなかった。
「……母さん!」
「なに?」
俺は突然説明のつかない不安に襲われ、その女の骨が突き出ていそうなほど細い肩を掴み返した。
「怖いの?」
母には俺の不安が伝わらず、クスッと笑いをこぼした。
「大丈夫よ。音はまだ遠い。この屋敷に落ちたりしないから」
そうではなかった。
確かに雷は苦手だったが、俺の不安はもっと説明の付かない、心の底から湧き上がってくるような不安だった。
「もう寝なさい」
母はそう言うと、俺を寝室へ促した。
「お姫様のところへ行くの?」
「そうね、ちょっと様子を見てくるわ」
俺をベットに寝かせるとタオルケットを俺の肩まで引き上げて、母は踵を返した。
「母さんッ!」
母はゆっくりと振り返った。
何でそんな気持ちになったのかは今でも分からない。
それでも、その時俺の口をついて出た言葉が、あの人に告げる最後の言葉になった。
「ありがとう、母さん」
母は一瞬怪訝な顔をして、それからぎこちなく微笑んだ。
『酷薄そうだ』と言われていた薄い唇は、笑みの形に曲がれば、丹精で美しかった。
母は何も言わずに、ドアへ向かった。
暗い部屋の中から、細く明かりがもれているドアの隙間に向って歩いていく母の背中は、頼りなく消え入りそうなほど細かった。