(8)
俺の記憶の中の母は、いつも消毒液の匂いがしていた――
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幼い頃、父に手を引かれて、月に一度のペースで白いお城へ行った。
そのお城のてっぺんには、真っ白なシーツの上で半身を起こして微笑む、長い髪のお姫様が住んでいた。
父はいつも決まって、両手に抱えきれないほどのサルビアの花束を抱えてお姫様に会いに行く。
一月前にもそうやって父が運び込んだ花が、お姫様の横の花瓶で無残な姿になっているのを、父は気にも留めない風情で、簡単に花瓶から抜き出し、足元のゴミ箱へ放り投げる。
お姫様は、いつもそんな花の様子を、少し寂しげな微笑を浮かべて見守っていた。
俺が小学校に上がる頃から、父の月に一度のお城への訪問が、二ヶ月に一度になり、三ヶ月に一度になり……半年も平気で顔を出さないようになっていた。
俺は父が寄り付かなくなったお城に、それでもせっせと通い続けた。
その城に住むお姫様が、自分の『母親』だと知ったのは小学校を卒業する頃だった。
俺の家には、他に『母親』と呼ぶ人がいた。
父親の秘書をしていたというその『母親』は、影で『鉄の女』とあだ名されるようなクールな女だった。
だが、俺はそんな『母親』が嫌いではなかった。
不器用なその女は、まるで教科書を読んで理解するように、求められる母親像を想像し、俺のために演じていたように思う。
そう言えば、城に住む『お姫様』のところへ、父親が顔を出さなくなってから、俺の『母親』も何度か城へ訪れたことがある。
お姫様は『母親』の顔を見るといつも決まって涙を流し、何度も額をシーツに擦り付けるようにして、ポロポロと綺麗な涙を流した。
「……坊っちゃん」
お姫様は、俺のことをそう呼んだ。
「坊っちゃんは、学校の成績がいいんですってね。「お母様」から聞いたわ。きっとお父様に似たのね」
フワリと微笑むお姫様に気を良くした俺は、学校の成績表をもらうと、いつもすぐにお城へ飛んで行った。
お姫様はいつでも、嬉しそうに小さな珍客を迎えてくれた。
しかし、俺の頭を撫でるその白い腕は、年を追うごとにやせ細り、ツンと鼻を突く消毒液の匂いも強くなっていった。
***
「……ねぇ、坊ちゃん?」
中学に上がってしばらく経った頃、入部したバスケ部の練習や何やらで、すっかりお姫様の元へ通う頻度も少なくなり、久しぶりに病室を訪れた俺に、お姫様は相変わらずの淡い笑みを浮かべながら、少し遠慮がちに切り出した。
「……今度の日曜日、お父様に何か予定は聞いていない?」
「父さんに?」
怪訝な顔で首をかしげる俺に、お姫様は「やっぱり、何でもないの」と言って、頬を染めてうつむいた。
その仕草は愛らしくて、哀れになるほど少女っぽかった。
「今度の日曜、何かあるの?」
お姫様は頬を染めるだけで、それ以上口を割ろうとはしなかった。
帰宅してから、俺は家にいる『母親』に、今日の病室でのお姫様の様子を話して聞かせた。
母は眉間に深く刻まれた皺をほんの少し弛めて「ああ」と短くため息を漏らした。
「……結婚記念日なのよ。美紗緒とお父様の」
美紗緒――とは、お姫様の名前だ。
お姫様にぴったりの、綺麗な名前が俺は気に言っていた。
「結婚記念日? だって、父さんと結婚してるのは、母さんでしょ?」
俺のもっともな質問に、生真面目なその人は再び眉間の皺を深くして、下がった眼鏡をかけなおした。
「……美紗緒は何か言ってた?」
「何も」
「……そう」
母はもう一度ため息をつくと、そのままその話を打ち切った。
次の週末までは、母の意味深な言葉の意味や、父の様子を探りながらソワソワした日々をおくった。
父からは『結婚記念日』のけの字もなく、俺はこのままお姫様が忘れられたら、可哀想で見ていられないと思った。
しかし、金曜の夜――父親の留守に、大量の花が自宅に届いた。
大量のサルビアの花束……
昔父が、まだお姫様の元へ足しげく通っていた頃、毎週のように惜しげもなくお姫様へ捧げていた、あの花だ。
俺は胸が躍った。
父さんもなかなかやるじゃないか。
俺には何も言わずに、お姫様をこっそり驚かせるつもりなんだ。
忍び込んだ父の書斎の机の上には、小さな宝石ケースに収められた真珠のネックレスも用意されていた。
父がお姫様の元を訪れるのは、本当に数年ぶりだ。
嬉しくなった俺は、日曜日まで黙っていようと思ったものの、この吉報を早く知らせてあげたくて、病院へと走っていた。
白い空虚な搭の上に囚われながら、何年も少女のように愛する男の訪問を待ちわびていた、哀れな女の元へと。
それが、彼女をより深い哀しみの淵に沈ませることになるなんて、知りもせずに。
「ねぇねぇ、内緒だよ?」
病室のお姫様の耳元に、幼い俺は唇を近づけて、世界の秘密を話すみたいに高揚した気持ちを押さえ込んで囁いた。
「……サルビアの花がいっぱいなんだ」
俺の言葉に、お姫様の頬が染まる。
「父さん、美紗緒さんに内緒でサルビアの花用意してるんだよ」
俺は得意満面に続けた。
「真珠の首飾りまであるんだ」
お姫様は、これまで俺に見せたどんな表情よりも幸せそうな顔をして、目尻には涙まで浮かべて俺の頭をかき抱いた。
「……へへへ、楽しみにしててね」
「ありがとう、坊ちゃん」
俺はお姫様に頭を撫でられて、何か特別なことをやり遂げた英雄のような気持ちにさえなった。
日曜日は折角だから、父親とお姫様を二人きりにしてあげたい。
俺は病室へ行くのは遠慮しよう。
お姫様の幸せそうな笑顔を守るために気を利かせる自分が、少し大人になったような気がして、誇らしくさえあった。
日曜日、お姫様が父親から抱えきれないほどのサルビアの花束と真珠のネックレスを受け取る日。
俺は二人の邪魔をしないために、日が暮れるまで友達と遊んで帰って来た。
お姫様と父親は、どんな一日を過ごしたのだろう。
父親はちゃんと、優しい言葉をかけてやったのだろうか。
お姫様の白い肌を飾る真珠は、さぞ綺麗だろう。
幸せな想像を膨らませながら家のドアを開けた時、信じられない光景が目に飛び込んできた。
あたり一面に千切られたサルビアの花。
嵐が通りすぎた後のように、無残な亡骸をさらすサルビアの群れが、俺の視界を埋めた。
「早く! 早く救急車を!」
家の中が騒然としている。
俺は履いていた運動靴を脱ぎ捨てて、家の中へと走った。