(7)
「待って! 理穂子!」
有無を言わさず後ろから細い手首を掴んだ。
振り返る女の顔が、手首を掴まれた痛さとそれだけではない、強い憎しみの色を宿して振り返る。
「……離して」
「昼食、一緒にしてくれるって約束してくれたら離す」
「ふざけないで」
理穂子は早川の今年三十六歳になる男とは思えない「あどけない」と呼んでもよさそうな顔を見て、イライラと唇を噛む。
早川はまだ理穂子の手首を掴んだままだ。
「昼食なんか、義姉さんといけばいいじゃない。私はあの子たちの母親でもないし、あなたの奥さんでもないわ」
ピシャリと言ってのけた理穂子にも、早川は肩をすくめただけだった。
「子どもたちも、君と行きたがってるんだよ」
「二人をダシに使うのは止めて! 卑怯者!」
すれ違う会社の関係者に奇異な目で見られたら、少しは早川も怯むのではないかと、理穂子は大声で叫んだ。
周囲の視線は集まったが、とうの早川は周囲のことなど目に入らないというように理穂子を見つめたまま視線を外さない。
「……なんて言われたっていいよ。君の側にいるためなら、何だって使ってやる」
手首を掴んでいた早川の手が上に上がり、指の痕がつくほど強く理穂子の二の腕を掴んだ。
「……親父が、そうしたみたいに」
早川の声が暗くこもり、理穂子は思わず目を逸らした。
「……それに、今日は特別な日なんだ。君に付き合ってもらえたら、俺も嬉しい」
「特別な日?」
不審の目で見上げる理穂子に、早川はフッと微笑んで見せた。
「……オフクロの命日なんだ、今日は」
微笑みながらも暗い影が過ぎる早川の瞳に、理穂子はすでに抵抗する気力を失っていた。
「頼むよ。ね?」
幼い子どものように、理穂子の顔を下から覗き込む早川に、理穂子は堪らなくなって目を逸らした。
「……分かったわよ。昼だけだからね」
早川の顔がパッと輝く。
人目も気にせず、まるでどこかの国の騎士のように、恭しく理穂子の手を取って歩き出す。
間近に寄せられた早川の顔が離れた時、一瞬、理穂子の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
初めてこの香りを嗅いだ時、理穂子はまだ十五歳だった。
甘いムスクの香りは理穂子の胸を締め付け、取られた手の熱もあいまって、理穂子は苦しさに息を止めた。
***
風が温かい。
二月とは思えない春のような陽気の中、早川の両の手にぶら下がるようにして歩いている葵と実は上機嫌だった。
親子の後ろから重い足取りで着いていく理穂子は、暗い表情で風に遊ばれる自身の薄茶色の髪を耳の後ろへかき上げた。
早川の会社から車で約四十分、東京の郊外に目指す墓地はあった。
少し高台になっているその場所は、息を切らせて上まで上がると、遠い都心のビルの群れが望めたりもする。
子どもたちはちょっとしたピクニック気分を味わえるこの場所がお気に入りだったし、理穂子も重い足取りとは裏腹に、この場所の眺め自体は悪くないと思っていた。
両手が塞がっている早川に代わって、理穂子が墓を清めるための水を桶いっぱいに汲んで運ぶ。
手には早川が来る途中で寄った花屋で買った、生前早川の母が好きだったと言うサルビアの見事な花束が抱かれていた。
「……よく似合うよ」
子どもたちの手を握ったまま、肩越しに振り返った早川が口を開く。
理穂子はむせ返りそうな香りを放つ花束の中に顔を埋め、早川の言葉が聞こえないフリをした。
耳が熱い。
たったこれだけの気まぐれのような言葉で、心臓をわしづかみにされたような気持ちになる自分が嫌だった。
「さあ、着いた。葵、実、ちゃんとおばあちゃんに挨拶するんだよ」
墓標に大きな字で『早川』と彫られた墓の前に辿りつくと、早川は子どもたちの手を離して、その背中をそっと押した。
子どもたちは父親の言葉に素直に頷き、墓の前にちょこんと座り込み手を合わせる。
「おばあちゃん、葵です」
「実です」
声を揃えて言うその姿が可愛らしくて、側で見ていた理穂子は、憂鬱な気持ちも忘れて思わず微笑んだ。
手に抱えたサルビアの花束を置いて、座り込む二人の頭を撫でる。
「理穂ちゃん先生もだよ!」
実に手首を掴まれて、理穂子もその場に座らせられる。
理穂子は頷いて、目を閉じ、両手を合わせた。
一度も会ったことがない、早川の母親は、早川が高校生の頃に亡くなったと聞く。
「……やっぱり、似ているね」
頭上から降ってくる早川の声に、目を閉じていた理穂子が思わず振り返る。
「可笑しいね、血も繋がってないのに」
早川はそう言うと、理穂子の髪に手を伸ばした。
ビクッと身を縮める理穂子の前で、早川はそっと理穂子の髪についていたサルビアの花びらを風に飛ばした。
昔、母に同じことをしてやったことがある――
何も出来なかった母。
ただ泣くことしか出来なかった、哀れで愚かで、
美しいだけの、あの女に……