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炎の中へ  作者: 春日彩良
第7話【烽火(ほうか)】
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(6)


 悪い男――という健吾の表現に幼さを感じて可笑しな気持ちになりながらも、隆志は初めてトレンチコートの男の幻影が実態として現れたような気がした。


 ハヤカワ ヨウスケ――


 理穂子の今の名前は「早川理穂子」である。


「斎木の義理の兄貴だ。早川グループは元々悪どいことやって成り上がってきた企業だけど、その黒い部分を一手に担ってるのが、早川洋介だって言われてる。俺のバイト先の建設会社の親会社でもあるんだけど、ヤクザまがいのことやってるってウワサだ」

「何で……」


 伊藤が理穂子と早川の関係を知っているのか?――そう問いかけようとした隆志より早く、健吾は答えた。


「萩原も長田も心配してる。この五年間、斎木はずっと悩んでた」


 五年――

 隆志が理穂子と別れていた期間だ。


「お前なら、何とかできるかもしれないだろ。俺じゃあ、無理だったけど」


 健吾は顔を赤らめ、プイッと横を向いた。

 少年時代から、幼い憧れを理穂子にストレートにぶつけてきた健吾の姿を思い出し、隆志は胸の奥がジンと暖かくなるのを感じた。



***



「……専務、早川専務」


 呼ばれて、書類の束に落としていた視線を上げる。

 右隣に席を構えた第一秘書の村瀬が、受話器の口を押さえてこちらを見ていた。


「お電話が入ってます。お子様、葵様からです」


 村瀬の言葉に、書類と対峙するためにきつく引き結んでいた早川の唇が緩む。


「ああ、回してくれ」


 早川のデスクに置かれた電話が、内線ランプを点灯させながら鳴り出す。早川はそれを取ると、耳に当てた。


「あ! パパ?」


 途端に、弾むような娘の声が耳に飛び込んでくる。


「葵か? よく来たな。今どこだ?」

「下のロビーだよ。実もいる」


 電話の向こうからは、息子の実が自分にも電話を回せと騒いでいる声がもれ聞こえてくる。

 早川は受話器を押さえ、クックと笑い声を漏らした。


「ねぇ、パパ。お仕事まだ終わらないの? 葵、お腹ペコペコだよ」


 今日は早川は午前中で仕事を切り上げて、子ども二人を昼食へ連れて行く約束をしていた。

 現在の時刻は午前十一時三十分。

 楽しみにしすぎた子どもたちは、約束の時間よりも三十分ほども早く来ていた。


「ごめんごめん、すぐ降りていくよ。ところで、理穂ちゃん先生はそこにいる?」


 早川が尋ねると、葵は少々困ったような声で言った。


「うん……だけどね、理穂ちゃん先生、今日はもう帰るって。大事なご用があるから、葵たちとご飯食べないで帰っちゃうって言ってるよ」


 それを聞いた早川は、思わず席から立ち上がって、葵の後ろの理穂子に聞こえるくらい大きな声で言った。


「葵! パパはすぐ降りていくから、理穂ちゃん先生に必ず待っててもらうように言いなさい。ね、すぐ行くからね」


 それだけ言うと、早川は自席にかけてあったカルバンクラインの背広を引っ掛け出て行こうとした。


「専務? まだ仕事が……」

「今日はこれで切り上げる。明日、朝一番で打ち合わせよろしくな」


 そう言うと、早川は急いで専務室を飛び出していった。

 村瀬は早川の父の代から、第一秘書として、この早川グループを見守ってきた。

 早川グループを一代で築き上げた早川惣介の一人息子である洋介のことは、彼が生まれた時から知っている。

 一人息子でありながら、一大企業グループにつきものの複雑な姻戚関係の犠牲者でもある洋介の生い立ちが、決して傍目に写るほど恵まれているわけではなかったことは、村瀬が一番よく知っていた。

 彼の冷徹なまでの仕事ぶりは、そうした不幸な生い立ちの上になりたっていると理解している村瀬にとって、洋介がある時期を境に時折見せるようになったこういった表情に、未だに戸惑いを覚えてしまう。

 息を切らせてロビーへと降りていく男は、愛情に飢えた冷徹な若き企業王ではなく、まるで初恋に胸を躍らせる高校生のようだった。



「葵っ! 実っ!」


 エレベーターホールから息せき切って走り降りてきた早川は、ロビーのテーブルに腰掛け遊んでいる二人に駆け寄った。


「あ! パパー!」


 早川の胸を目指して飛び込んでくる二人の子どもを抱きとめながら、早川は素早く二人の頬にキスの雨を降らせた。


「わぁ、パパ、いい匂い」


 抱きしめたりキスしたりするたびに、葵はいつもウットリとこう言うのがお決まりになっていた。

 早川が好んでつけている、甘いムスクの香りだった。

 その時、二人の子どもを抱え下ろした早川は、キョロキョロと辺りに目を配った。


「ねぇ、葵。理穂ちゃん先生は?」


 葵はクセのない切り下げた前髪を揺らして、心なしか不満げに唇を尖らせて言った。


「あのね、葵ね、待っててって言ったんだよ。だけど、理穂ちゃん先生ね、すごく急いでるからって、行っちゃったの」


 早川の顔がみるみる子供のように曇る。


「なぁんだ、そっかぁ」


 早川はそのまま先ほどまで葵たちが腰掛けていた椅子に座り、身体を沈み込ませた。


「オレも止めたんだぜ!」


 実が早川の手を握って、訳知り顔で頷く。その様子が可笑しくて、早川は思わず顔を緩めた。


「ありがとな、実」


 父親に髪をクシャッとやられて、実は得意げに胸を張った。


「あ! まだいる!」


 その時、葵が早川の腕を掴んで、伸び上がりながらロビーの出口を指差した。


「え? どこ?」

「あそこ! 早く追いかけて、パパ!」


 葵の指差す方向に、早川は確かに理穂子の線の細いワンピースの背中を見つけた。


「ちょっと待ってろ、二人とも」


 早川はそう言うと、理穂子の元へ駆け出していた。



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