(2)
昨夜からたった一晩明けただけでの、理穂子のこの変わりようは、隆志には底知れない不安を植え付けた。
「さあ、出来たわよ。実、葵、お手伝いしてね」
台所の暖簾をめくって理穂子が遊んでいた二人に声をかけると、二人は素直に台所に入っていき、手を洗ってから、理穂子に渡された台布巾でテーブルをきれいに拭いた。
「島貫君は座ってて、お客さんなんだから」
理穂子は所在なげに立ち尽くしたままの隆志に、クスリと笑いを漏らした。
「いただきます」
テーブルに朝食がそろい、皆が席につくと、実と葵は両手を合わせて大きな声で食前の挨拶をした。
よく躾けられた子どもらしい仕草に、思わず隆志と理穂子の頬も緩む。
温かく炊かれたばかりの白米と、大根と豆腐の味噌汁は味が染みていて美味かった。
熊本のハル婆のところを出てきてから、久しぶりに味わう手料理だった。
「……昨日はごめんね。みっともないところ見せちゃって」
朝食が終わり、食器を流し場に運んでいる時に、理穂子は俯きながら小声で詫びた。
実と葵は再びウサギのミミを撫でながら居間で遊んでいる。
「……別に」
隆志は食器の上に勢いよく水を出して、気まずい雰囲気を緩和しようとした。隆志が分からないのは、昨夜の理穂子ではない。むしろ、まるで何事もなかったかのように振舞える、今朝の理穂子の方だった。
「今日、保育園が終わったら、葵と実はピアノのレッスンがあるの。私が送って行くんだけど、よかったら一緒に来ない?」
「え?」
隆志は洗物をしていた手を止めて、理穂子を見た。
「ピアノの先生は、島貫君もよく知ってる人だと思うよ。小学校の時、一緒だった長田さゆり、覚えてない?」
「え? 長田?」
隆志は曖昧な過去の記憶を引っ張りだした。
お下げ髪にして、いつも理穂子たちと一緒にいた泣き虫の少女の面影が、薄ぼんやりと浮かんでくる。
「さゆりも喜ぶと思うな。夕方4時からなんだけど、どうかな?」
隆志は一瞬、自分が勤める新聞配達所の所長の顔を思い浮かべた。
初老の人のよさそうな男だが、今朝無断で朝刊配りをすっぽかしてしまった上、夕方の夕刊配りまで休ませてくれとは言いにくかった。
「……行くよ」
だが、口から出てきた言葉は裏腹だった。
理穂子の晴れやかな笑顔は、隆志の胸の奥にチクリと刺さる棘のようなものを残しながらも、幼い日に理穂子に寄せた淡い想いに似た感覚を呼び起こさせてもいた。
***
隆志は昼の間に散髪に行き、伸び放題になった髪を整えた。
一張羅のジャンパー姿は代えられなくても、せめて少しでも身奇麗に装いたかった。
昨夜の理穂子の相手の男が着ていたような上質そうなトレンチコートの影が、昨日から頭の隅にこびりついている。
今、理穂子やさゆりが生きる世界は、小学生の時に自分が感じた彼女たちとの差以上に開いている気がしてならなかった。
待ち合わせの時間に遅れた隆志は、先に理穂子たちに行ってもらい、さゆりのピアノ教室で落ち合うことになっていた。
探して行ったさゆりのピアノ教室は、閑静な住宅街の中にあった。
既に結婚して家庭に入っていたサユリだが、音大出身の彼女は、自宅のスペースを一部開放して、裕福な家庭の子どもたちにピアノを教えていた。
実と葵の自宅もその高級住宅街の一角にあり、たまたま叔母である理穂子の同級生が開いているピアノ教室ということで、二人の両親は幼い子どもたちをその教室に通わせることに決めたのだった。
手入れの行き届いた庭の中には、陶器で出来た天使の置物が花壇の脇に置かれ、この場違いな客人に睨みを利かせているような気がして、隆志は何となく居心地の悪い想いのまま、呼び鈴を押した。
屋敷の外まで漏れ聞こえていた拙いピアノの旋律が止み、しばらくすると中から扉の鍵を外す音が続いた。
「はーい」
思わず隆志がのけぞるくらい勢いよく開いた扉の中から、眼鏡をかけた若い女が顔を覗かせた。
「やだ!本当に、島貫君?」
女は隆志を一目見るなりそう言うと、歓声を上げて後ろを振り返った。
女の後ろには、理穂子が悪戯っぽい笑みを浮かべて立っている。
「高校辞めてからどこか遠いとこに行っちゃったって聞いてたけど、いつ戻って来たの?相変わらず、背高いね。なんか、野性味が増したっていうか……うん、カッコよくなっちゃって。あ、結婚してるの?もう」
「さゆり」
矢継ぎ早に質問するさゆりを、理穂子が苦笑しながら止めに入る。
「とにかく、中に入ってもらってからにしたら?」
「あ!そうだね、ゴメン、島貫君。そうぞ、今レッスン中で散らかってるけど」
そう言うと、さゆりは身体をずらして、扉の奥に続くピカピカに磨かれたフローリングの廊下の先を示した。
さゆりの機関銃のような話しぶりに気圧され気味だった隆志は、ようやく一息つき、軽く咳払いをしながら頷いた。
玄関で靴を脱ぐとき、隆志は自分の煮染めたように土やドロの垢が染みこんだなボロボロのスニーカーが、顔から火が出るくらい恥ずかしかった。
塵一つ落ちていない新築の家庭の玄関で、その薄汚れたスニーカーは、どうしてもこの場に馴染むことの出来ない、異端者としての自分の象徴のように感じられた。
そう言えば、幼い日にも、まるきりサイズの合っていないスニーカーを突っかけて登校していた。
伊藤健吾やその他の悪ガキたちに、そのみすぼらしい一品をドブ川に投げ捨てられたことも、一度や二度ではなかった。
どうせ投げ捨てるなら今まさにこの場で、目の前のこの靴を美しい玄関から投げ捨てて無き物にして欲しい。
そんなことを考えている自分に、隆志は思わず苦笑した。
先に立って廊下を行く理穂子とさゆりの後ろで、踵の部分を無造作に摘んで、隆志はそっと彼女たちの目につかないように、このみすぼらしい靴を玄関の隅に寄せた。