(2)
どうやら少年たちの目当ては、他の少女たちではなく彼女一人だったようで、相手にされずに、余計に執拗になっているようだった。
当の理穂子自身はそ知らぬ顔で、友達にガードされながら、金魚すくいに興じていた。
斎木理穂子は、隆志たちのクラスのマドンナだった。
クルクルとよく動く愛くるしい瞳と、透き通るように白い肌。この街で一番大きな家財道具屋を営む商家の若旦那の一人娘である彼女は、豊かに育った子どもらしく、ヒネたところが一つもない、素直で明るく気風もよく、皆に愛される存在だった。
潔くたくし上げられた浴衣の袖から伸びた白く華奢な腕が、提灯の薄明かりの下で、淡い光を放つ。
クルンと丸まったポニーテールの髪のほつれ毛が、浴衣の襟足でフワフワと揺れていた。
隆志はそっと、その場を離れた。
自分に絡んできたあの三人の少年たちよりも、理穂子に今の自分の姿を見られたくなかった。
一時間ほど夜店を冷やかしてブラブラしていると、花火大会の開始時間になった。皆が一斉に、より展望のよい場所を求めて移動を始める。隆志も人ごみに押されるようにして、河川敷の方へ降りていった。
自分より背の高い大人たちの頭越しに、青や赤や緑に燃える空の華を見上げる。
人ごみに息が詰まりそうになりながらも、隆志はその美しさに息を呑み、爆発音にも似た激しい音に胸を振るわせた。
最後のラッシュのような打ち上げが終わり、夜空にシン――と静寂が戻ると、観客たちはまた散り散りに河川敷を後にして帰宅の途につき始めた。
母の帰りは朝になる。
このまま祭りの賑わいの中から、たった一人の暗い家に帰る気にはなれず、隆志は何とか時間を潰そうと、人の流れと逆行して、川原の方へ降りていった。 人けの引いた川原には、いたるところに観客の残していったゴミが散乱して、隆志の折角の高揚した気分を興醒めさせた。
その時、隆志の目に、先ほど鮮烈に胸を焼いたばかりの浴衣の柄が飛び込んできた。早鐘を打つ鼓動を静めるために、隆志は自らのランニングシャツの胸元をキュッと押さえてから目を凝らした。
間違いなかった。
紺地に赤く可憐な金魚の絵をあしらった浴衣…斎木理穂子が、こちらに背を向けて、たった一人で川原の波消し用のブロックに腰掛けていた。
「……斎木?」
隆志は恐る恐る声をかけた。理穂子が振り返った瞬間、自分で声をかけておきながら、隆志はビクッと飛び上がってしまった。自分の声に、理穂子が反応してくれるとは思わなかったから。
「島貫君?」
名前を呼ばれ、隆志は耳が熱くなるのを感じた。今の自分の顔は、きっと理穂子の浴衣の金魚よりも赤く染まっているに違いない。暗がりで助かった。
「……ど、どうしたの? こんなとこで」
隆志は詰まりながら言った。まともに理穂子の顔を見られない。
「みんなとね、花火見てる間にはぐれちゃって……鼻緒も切れちゃって……」
途中からは、涙声になって言葉にならなかった。隆志は弾かれたように顔を上げ、そこで初めて理穂子が顔をクシャクシャにして泣いていることに気がついた。
しゃくり上げる理穂子の足元に目をやると、理穂子の言うとおり赤い下駄の鼻緒が切れ、素足からは血が滲んでいた。
「あ……と……えっと、ちょ……ちょっと待ってて!」
隆志は言うなり、理穂子の足元にしゃがみこみ、鼻緒の切れた下駄を理穂子の足から奪い取った。
「え? 島貫君!?」
あっけにとられる理穂子の顔を、またしてもまともに見れないままに、隆志は赤い下駄を胸に抱えると、もう一度「待ってて」と言い残し、一目散に川原を駆け上がっていった。
祭りから帰る人の群れを掻き分けて、隆志は長屋に向かって走った。胸にはしっかりと、理穂子の赤い下駄を抱いている。理穂子の形の良い、人形のように小さな足を思い出し、隆志はまた耳が熱くなるのを感じた。
息を切らせて長屋に帰り着くと、立て付けの悪い木戸を乱暴に開け、下駄を抱いたまま、母の寝室に駆け込んだ。
母が繕い物をする時に使う裁縫道具が詰まった箱を押入れから取り出し、適当な布切れを掴む。
ジジ……ジジ……と頼りない音を立てて、時々気まぐれに明かりの消える裸電球の下で、隆志は胡坐を組み、理穂子の下駄の鼻緒の修理に取り掛かった。
しかし、鼻緒の修理など経験があるはずもなく、焦る気持ちと裏腹に、汗で粘る手は思うように動いてくれない。あんなに暗い川原で、理穂子はたった一人で待っているのだ。どんなに心細いだろう。一刻も早く、戻らなければならない。
隆志は遂に観念して、下駄を放り出した。
その時、開け放した押入れから転がり落ちた母のサンダルが隆志の目に飛び込んできた。ピンクの派手なラメ入りのサンダルは、夏になると仕事の時に必ず履いていく母の気に入りだったが、いかにも「商売女」のようで、隆志は嫌いだった。
だが今は、そんなことは言っていられなかった。先週、修理に出して返ってきたばかりのその母のサンダルを抱え、隆志は長屋を飛び出した。
息を切らせてもといた川原に戻ると、理穂子は変わらず波消しブロックに腰掛けて、すすり泣いていた。
「……ごめ……。遅くなった」
隆志は膝に手をあて、身体を二つに折り曲げながら、息を整え終わる間もなく、ズイッと理穂子にピンクのサンダルを差し出した。
「どうしたの? これ」
赤い下駄の変わりに毒々しいピンク色のサンダルを抱えて帰ってきた隆志に、理穂子は泣くのも忘れて目を丸くした。隆志は何も言わず、そのまま理穂子の足元にシャガミ込むと、理穂子の小さな白い足をとって、ピンクのサンダルをあてがった。
「…代わりに、履いて。きっと、痛くない」
隆志は身体の後ろに手をついて、夜空を仰ぎ、胸を上下させて息を整えた。やっとまともに空気を吸えたような気がしていた。
理穂子は呆気にとられていたが、足元のサンダルを恐る恐る手で確かめ、ようやく涙を止めた。
「……ありがとう」
隆志が見上げていた、何もない暗いだけの夜空に、突然、理穂子の笑顔が降ってきた。隆志は胸を射られたように動けなくなったが、ボソボソと口の中で「…別に」と呟いて、理穂子から目を逸らした。
「島貫君は、誰と来てたの? 遅くなって、お家の人、心配するんじゃない?」
理穂子は泣いてクシャクシャになった顔を浴衣の袂で拭きながら、懸命に笑顔を作ろうとした。
「うちは、別に、平気だよ」
誰と来たのか…一緒に来る友達も親もいやしない。
そんな分りきったことが今更恥ずかしく、隆志はわざとぶっきらぼうに答えていた。
「折角の花火、見られなかったな」
理穂子は、花火の名残の煙もすっかり溶けた夜空を見上げて、寂しげに言った。
「さゆりたちとはぐれちゃって、慌てて、鼻緒まで切れちゃって…人もいっぱいだし、花火見てる余裕なかった」
「大したことなかったよ」
隆志はしょんぼりする理穂子に力強く言った。
「全然、しょぼいもんだった。うん、皆言ってたよ。わざわざ出てきて損したって」
隆志が必死になってつく嘘に、理穂子はようやく少し笑った。
その時、ピチピチのサイズの合っていないズボンのポケットに押し込められた、小さなマッチの箱が、隆志の指先に触った。
「斎木、花火…やる?」
咄嗟に口をついて出た言葉に、言った当の本人が一番ギョッとしていた。小首をかしげ、キョトンとした表情で自分を見ている理穂子に、隆志は急に恥ずかしくなり、身体中が熱くなるのを感じながら俯いた。
「…いや、花火って言ってもさ…いいんだ、忘れて」
「やりたいな」
屈託のない理穂子の声が、言い訳を探す隆志を遮って、明るく響いた。
「教えてよ、島貫君」
理穂子は浴衣の裾をクルッと器用に膝の裏にまとめて、隆志の傍にしゃがみこんだ。隆志は間近に迫った理穂子の顔を直視出来ずに、俯きながら、恐る恐るポケットから小さなマッチ箱を取り出した。
「島貫君、マッチ擦れるの?」
隆志が小さく頷くと、理穂子は感心したように言った。
「すごいねえ、私はダメ。火傷しちゃいそうで怖くって」
「これ…だけだよ」
「え?」
「俺の、花火…これだけなんだ」
そう言うと、隆志は潰れたマッチ箱の蓋をずらし、中にたった一本だけ残ったマッチ棒を理穂子に見せた。
「…よく、見てて」
隆志はマッチ棒を指先で丁寧に摘むと、理穂子の鼻先にかざして見せた。理穂子の大きな瞳がゆっくりと瞬きして、隆志の指先に集中する。
隆志はマッチ棒を擦った白い跡がいくつも残る箱の側面に、そっとマッチ棒をあてがうと、手首を使ってシュッと勢いよく先端を擦りつけた。
一瞬、肩をすくめ思わずギュッと目をつぶった理穂子だったが、閉じた瞼の裏をチラチラと照らす光に、固く閉じていた目を薄く開けてみた。
「…わぁ」
目を開けた理穂子の前には、チロチロと暖かいオレンジ色の炎、その向こうには、恭しく小さな炎を理穂子の前にかざす隆志の姿があった。
「熱くない?」
「全然」
理穂子は恐る恐る、先端に小さな炎を宿したマッチ棒を掴む隆志の右手を包むように、小さな両手を炎の周囲にかざした。
「きれい…」
理穂子は、自らの掌を内側から赤く染める火に、うっとりとしたため息をついた。
「さっきの空の花火よりきれいだね」
理穂子が首を傾げると、ポニーテールにまとめた栗色の髪がさらりと肩を流れた。長い睫毛が炎に照らされ、理穂子の色白の頬に濃い影を落とす。
「理穂子!!」
その時、土手の上から鋭い声がした。
「パパ」
振り返った理穂子は、隆志の右手を包むように火にかざしていた両手を離し、弾かれたように立ち上がった。
隆志の手から、もうすぐその一生を終えようとしていた小さな火が、こぼれて、落ちた。
息を切らせながら土手を駆け下りてきた若い男は、理穂子の前まで来ると、暗闇でもそうと分るほどの青ざめた顔で、理穂子を強く抱きしめた。
「…随分探したんだよ。さゆりちゃんたちが、お前とはぐれたって知らせてくれてね…心配させて、本当にお前って子は!」
「ごめんなさい、パパ」
理穂子が腕を回すと、若い父親はようやく、ホウッと深い安堵のため息をついた。
理穂子の肩に置かれた手は、男にしては華奢に骨ばっていて、袖口についたカフスボタンが鈍い光を放ち、隆志を弾いていた。
「…君は?」
その時、理穂子の父親は、マッチ棒の燃えカスを雪駄でもみ消しながらモジモジと立っている隆志に気がついて言った。
「島貫君だよ、同じクラスの。足が痛いのを助けてもらったの」
隆志がモゴモゴと何事か答える前に、理穂子が父親の仕立てのよいシャツの裾を引っ張りながら答えた。
先代のこの街一番の家財道具屋を引き継いだ若き二代目は、父親というよりも、丸眼鏡をかけた童顔の、文学青年と呼ぶほうがピンとくるような風貌だった。
「助けてもらった?」
父親は、そう言われて初めて、娘の足に収まる毒々しいピンク色のサンダルに目を留めた。
「これ、君が?」
軟らかい口調だったが、一瞬、その整った眉根に浮かんだ嫌悪の色を、隆志は見逃さなかった。
どこからどう見ても「商売女」が履くようなその品のない色合いのサンダルは、粗末な衣類に身を包んでいるこの状況と合わせても、自分の境遇を、いわずもがなに物語っていた。
「世話をかけたね。君の家はどこ? 送っていくよ」
隆志はブンブンと大きく頭を横に振ると、理穂子たち父子にクルリと背を向け、一目散にその場を逃げ出した。
「あ、島貫君!」
理穂子の声が後ろで聞こえたが、隆志は振り返らずに構わず土手を駆け上り、長屋までの道のりをひたすらに走った。
理穂子との短い夢のような時間が終わった…
まだ青年とすら呼べそうな、若く育ちの良さを滲ませている理穂子の父親にまで、思わず嫌悪の表情を浮かべさせてしまう自分の存在が、たまらなく惨めだった。
翌朝早くに、理穂子の父親は、律儀にもピンクのサンダルと、高価な東京の菓子を持って、隆志たちの長屋を訪れた。
「斎木と申します。夕べは、娘が大変お世話になりました」
昨夜の客の相手をした酒も抜けぬまま、乱れた髪とネグリジェ姿のまま不機嫌に玄関先に出た母は、突然現れた、美しく品のよい顔立ちをした若い男に対して、見え透いた好色の眼差しを隠そうともしなかった。
「これ、隆志君が、うちの娘に貸してくれたものです。お困りだろうと思いまして…持ってまいりました」
理穂子の父親が差し出したピンクのサンダルを見た途端、母の表情は一変した。
「ご丁寧にどうも。確かに、夕べはこれを履いていかなかったので、商売も上がったりでしたよ」
昨日化粧を落とさないまま寝入ったので、まだ紅の名残が滲む口元を皮肉気に歪めて、母は理穂子の父親の手から、ピンクのサンダルをひったくった。
「何のお構いもできませんで」
母はそう言うと、困惑したような理穂子の父を半ば強引に締め出すように、長屋の扉をピシャリと閉めた。
「全く、商売女だと思って馬鹿にして!」
玄関にサンダルを綺麗に並べて置くと、母は奥の部屋にいた隆志のもとまで飛んでゆき、思い切り強く隆志の頭を張った。
「家財道具屋の娘にサンダルをくれてやっただって?まったく、色気付いて。このませガキ!」
「…ッてぇ」
あまりの衝撃に涙が滲む。ジンジンと痛む頭を抑えながら、隆志は部屋の隅にふと目をやった。
「…へへ」
「人が怒ってるのに、何ニヤニヤしてんのよ!」
思わずこぼれた笑みに、容赦ない鉄拳が再び振り下ろされる。涙を滲ませながら、それでも隆志は笑みを抑えることができなかった。
部屋の隅には、返しそびれた赤い小さな下駄が、転がっていた。
※
あの時、たった一つしか持っていなかった小さな火種。
空に咲く花より綺麗だと、君が言ったから。
許されるなら僕は、調子に乗って、一晩中でも小さな火を焚き続けただろう。
君が笑うから…
空の花より綺麗に、君が笑うから…
~第2話「花火」<完>~