(16)
キッチンに消えた理穂子が、マグカップにコーヒー用の熱湯を注ぐ音だけが、静かなリビングに響き渡る。
「ねえ、島貫君」
リビングと台所を隔てる簾越しに、理穂子が不意に声をかけた。
「なに?」
隆志は突然のことにビクッと肩を震わせて、簾越しに理穂子の後姿を見つめた。
「さっき、私にいい人がいるみたいだねなんて言ってたけど、島貫君はどうなの?」
「え?」
「五年もたってるんだもの。いい人ぐらい、いたんでしょ? ううん、今も待ってる人いるんじゃない?」
背中を見せたまま決して振り返らない理穂子だが、陽気さを取り繕いながらも声は震えていた。
「……いないよ」
隆志は短く、しかしキッパリと言った。
「また、そんなこと言って。知ってるよ、高校のときだって結構人気あったんだって圭子が……」
「いないよ、そんな奴!」
理穂子の言葉を遮って、隆志は思わず声を荒げた。
ソファを立ち上がり、理穂子の元へ向かう。初めて理穂子が振り向いた。
簾越しに、至近距離で二人の視線が絡み合う。
「……島貫君」
息をつめて呟いた理穂子の肩に隆志が手を伸ばそうとしたその時、インターホンの無機質な音が、二人の間に割って入った。
一瞬、理穂子の目が怯えたように隆志を捉えた。
隆志は思わず、玄関先の方を振り返った。
「……ごめん、ちょっと出てくる」
理穂子は隆志から視線を外すと、力ない足取りで玄関に向かった。
「あっ! おい!」
覗き穴から外を見ることもせずに扉を開けにいく理穂子の背中を、隆志は呼び止めようとしたが、理穂子は初めから訪問相手が誰であるか分っているようだった。
隆志の鼓動が早くなる。
ザワザワと全身の皮膚を内側から逆撫でるような胸騒ぎを覚えた。
カチャ……
理穂子が玄関の鍵を開ける音が隆志のいる静かな室内に響き渡った。
冷たい外の空気が室内に流れ込んでくるのと同時に、細く明けられた扉の隙間から、隆志の見覚えのあるトレンチコートの端が垣間見えた。
理穂子は細く開いたドアの隙間から素早く自分の身体だけを外に出して、後ろ手にドアを閉めた。
乱暴に閉めたせいで、アパートの部屋全体がその衝撃に揺れる。
やがて、扉の向こうから理穂子と男の口論する声が聞こえてきた。
隆志はたまらず玄関先に走り寄って、扉越しに二人の会話を聞いた。
「ここにはもう来ないでって、何度も言ったでしょ!」
「話し合わなけりゃいけないだろう」
「話し合うことなんて、もう何もないわ!」
感情的に叫ぶ理穂子の声は、涙に濡れていた。
男の低く甘い響きを含んだ声は、隆志の脳裏に、彼の社会的地位に裏打ちされる落ち着き払った人物像を浮かび上がらせた。
それは、今隆志がジャンパー代わりに羽織っている漁師時代に買った粗末なスタジアムジャンパーと、男の身に纏ういかにも質の良さそうなトレンチコートとの差にも表されていた。
隆志は自分のジャンパーの擦り切れた袖口を見つめて、唇を噛みしめた。
「帰って! 帰ってよ!実も葵も後で送り届けるわ」
「お願いだ、理穂子。中に入れてくれ。中で話そう、な?」
「いや! 帰って!」
バンッと理穂子がドアに激しく背中をぶつける音がした。
身体をはって、男が部屋の中に入るのを防いでいるようだった。
「……理穂子」
「触らないでよっ!」
理穂子は金切り声を上げて泣きじゃくった。苦しげにしゃくり上げる声がドア越しに聞こえる。
「……落ち着いてくれ、頼むから」
そう言った男の声に続いて、理穂子のしゃくり上げる声がくぐもって聞こえてきた。
隆志はこれ以上早く打てないと思うほどの鼓動を繰り返す胸を押さえて、そこに広がる光景に恐怖しながらも、抑えきれない欲求に抗えず、そっとドアの覗き穴から二人の様子を覗った。
そこには、良質のトレンチコートの腕に抱かれた理穂子の背中が見えた。
理穂子は抵抗する気力も失くしたかのように、男の腕の中でグッタリと力を失っている。
隆志は目を瞑り、次の瞬間、勢いよくドアを開け放った。
突然理穂子の部屋の中から現れた予想もしない男の登場に、トレンチコートの男は、一瞬あっけに取られたように隆志を見つめた。
男に抱かれた理穂子が、その姿勢のまま隆志を振り返る。
隆志は理穂子から顔を背け、そのまま二人の前を横切ってアパートを後にしようと一歩を踏み出した。
もうこれ以上、ここに居てこんな茶番を見せられるのは真っ平だった。
その時、予想もしない強い力で隆志は腕を引かれた。
隆志がハッとして振り向くと、先ほどまで男の腕の中で力を失っていた理穂子が、男を突き飛ばし隆志の腕を掴んでいた。
「この人、私の恋人よ」
理穂子は隆志の腕をつかんだまま、目の前の男に言い放った。
目には未だ涙の痕が残っていたが、声は冷酷な響きをはらんでいた。
「話し合うことなんてない理由は、コレよ。分かったでしょ?」
トレンチコートの男は、訝しげな目で隆志を睨んでいる。隆志が何も言う間もなく、理穂子は隆志の腕を更に強く引いて、そのまま男の目の前で、隆志の唇に自分の唇を重ねた。