(15)
女の子とたった二人部屋に取り残された隆志は、自分に無遠慮に真っ直ぐな視線を投げてくる女の子を見返した。
少し上を向いた、ソバカスの散った鼻が実によく似ている。
一目で、実が言っていた、年子の姉であろうことが検討ついた。
「パパがお迎えに来るまで、理穂ちゃん先生のおうちに行くの」
女の子は隆志から視線を外さないまま言った。
「困ります!!」
その時、廊下の向こうから、電話口でもめる理穂子の声が聞こえてきた。
「それこそ、公私混同だわ。確かに私は今日は夜勤明けでこのまま上がりだけど、梓さんの了解はとってるんですか? 私は一人暮らしなのよ。夜、あなたが一人で私の部屋にくるなんて……ちょっと、ねえ……」
理穂子にしては珍しく声を荒げている。
「義兄さんっ!」
理穂子の最後の一言で、電話は切れたようだった。
チン……と、力なく戻される受話器の音が、冷たい廊下に響き渡った。
スリッパをズルズルと引きずりながら、理穂子が再び隆志たちのいる医務室に戻った時には、心なしか顔が青ざめていた。
「大丈夫か?」
思わず声をかけた隆志に、理穂子は力なく頷いて無理に笑みを作った。
「この子たち、連れて帰るわ。丁度、私も非番だし」
理穂子は葵の癖のない髪の中に手を入れて言った。
「この子たちね、義兄の子どもなの。葵と実。私の甥っ子姪っ子。保育所では他の子どもたちと同じように扱うけど、時々こうやって、両親の帰りが遅いときや、熱を出してどうしても見れないときは、私のアパートで見たりしてるんだ」
理穂子は氷嚢を頭に乗せて寝息を立てている実の身体を起こそうとかがみ込んだ。
隆志はそんな理穂子の横からスッと手を伸ばし、実の身体を抱きかかえた。
「アパートまで、運ぶの手伝うよ。一人じゃ大変だろ?」
隆志の腕の中で、実の身体が熱い。熱が上がってきているかもしれなかった。
「そんな。悪いよ、島貫君」
戸惑う理穂子に、隆志は冗談めかして言った。
「こんな口実でもなきゃ、女の人の一人暮らしの部屋に入る機会なんてないから」
隆志の似合わない冗談に、理穂子が隣で苦笑するのが分かった。
隆志は荒い息を継ぐ実に視線をやったまま、何気ない調子を装ったまま更に言った。
「でも、誤解されたら斉木の方が迷惑だよな」
「え?」
葵と手をつないで、隆志たちの後に続いて廊下を渡る理穂子が怪訝な顔で聞き返した。隆志は勤めて明るく聞こえるように言った。
「いい人、いるんだろ? 俺、たまたまこの前見ちゃったんだ……結婚するの?」
その途端、理穂子の歩みが止まった。
「理穂ちゃん先生?」
葵が不信に思って理穂子の袖を引っ張る。
「……相変わらずだね」
うつむき呟く理穂子の表情は見えない。
理穂子は絞り出すように、乾いた声で言った。
「……島貫君は、何も分ってない」
無意識のうちに力がこもってしまったのか、理穂子に手を握られた葵が顔をしかめる。
「……理穂ちゃん先生、痛いよぅ」
その言葉で、理穂子はフッと我に返って葵の手を握り返した。
「ごめん、行こうか」
理穂子はもう元の優しい笑みに戻っていた。
隆志は実を腕に抱いたまま、理穂子の後に続いた。
***
「どうぞ」
外からは見慣れた理穂子のアパートに足を踏み入れるとき、隆志は実を抱いたまま一瞬躊躇した。
理穂子の部屋は冷たく、女の一人暮らしとは思えないほど殺風景だった。
理穂子が手を伸ばしてつけた蛍光灯の明かりが室内に満ちると、ようやく人の住んでいるような気配も感じられたが、少女の頃の理穂子を知る隆志からしてみれば、今の彼女の生活観のない部屋は意外な気がした。
「何にもないけど」
隆志の心を見透かしたように、理穂子が苦笑しながら部屋に入る。手を引いていた葵が玄関に綺麗に脱いだ靴を並べるのを見て頭を撫でてやると、理穂子はもう一度隆志に向かって部屋に入るようにと頷いて見せた。
隆志が上がったリビングには、本当に必要最低限のものしか置いていなかった。まるで、今すぐ主がどこかへ消えてもおかしくないという風情だった。
「実、預かるわ。ありがとう、島貫君」
そう言うと、理穂子は隆志の腕から眠る実を受け取って、奥にある自分の寝室へ運んだ。
理穂子に実を手渡すとき、一瞬理穂子の手に自分の手が触れて、隆志は思わず頬を熱くした。理穂子の髪は甘い香りがした。
実の姉の葵は、よく躾けられた子どもらしく、理穂子に言われずとも自分から洗面所で手洗いウガイを済まし、隆志の目の前のソファにちょこんと腰を下ろしている。先ほどから目をしばたたかせながら、しきりに眠気と戦っているようだ。
「葵も疲れたでしょ。ご飯食べたら、実と一緒におネンネしようね」
実をベッドに運び終えた理穂子は、戻るなりウツラウツラと船を漕ぐ葵を見て、クスリと笑いをこぼしながら言った。
葵に適当な夕食を取らせた後、実と同じ部屋で葵を寝かしつけると、理穂子は隆志のいるリビングに戻ってきた。
「コーヒーでも入れようか」
隆志は先ほど葵が腰掛けていた粗末な布張りのソファーで、細く長い足を不器用に折り曲げて座った格好のまま、ぎこちなく頷いた。