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炎の中へ  作者: 春日彩良
第6話【火種(ひだね)】
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(13)


 朝より大分カサの少ない夕刊の束を配り終えて綺麗に空にした原付バイクの前カゴには、賄いで作ってもらった朝の握り飯の残りが積んである。

 隆志は片足をついて、この界隈では比較的小奇麗なアパートの前でエンジンを止めた。


 理穂子の住むアパートだった。


 勤め先の保育所から歩いて5分ほどの距離のこのアパートで理穂子は一人で暮らしていた。毎日理穂子と勤め先に新聞を配って理穂子の様子を覗っているうちに、隆志は知らず知らずのうちに、理穂子の「日勤」「夜勤」の生活スケジュールまで把握するようになっていた。

 理穂子にばれたら、さぞ気味悪がられるだろうと、隆志は一人寒空の下で鼻を啜りながら苦笑した。 しかし、自嘲しながらも止めることが出来ないのは自分でも百も承知していた。

 今日の理穂子は「日勤」の勤務だった。

 午後7時には帰宅の途に着く。


 隆志がすっかり冷め切った握り飯を頬張りながら二階にある理穂子の部屋を見上げていると、軽快にトントントンと階段を登る足音が聞こえ、大きなバックを方から斜めがけした理穂子が帰って来た。

 三編みにした薄茶色の髪は、少しほつれてうなじに垂れていた。

 理穂子がジーンズのポケットから鍵を取り出して部屋に入るまで、隆志は息をつめて理穂子を見守っていた。

 電信柱の影になって、理穂子から隆志の姿は見えない。

 この死角を見つけてからは、隆志は朝・夕の配達の行き帰り、必ず理穂子のアパートの前に立ち寄り、アパートの様子を覗っていた。

 やがて部屋の中に電気が灯り、微かだが薄暗いアパートに生活の気配が満ちてくると、隆志は片足をバイクに戻して、エンジンを捻ろうとした。


 その時、隆志は不意にアパートを駆け上がってくるもう一つの足音を聞いて振り返った。


 理穂子より重い音を響かせて一段一段階段を上がってくるのは、遠目にも高価そうなトレンチコートを羽織った大柄な男だった。

 隆志はエンジンにかけていた手を止めて、男を凝視した。

 男は理穂子の部屋の前で立ち止まると、ためらう素振りもなく呼び鈴を押した。

 沈黙が続き、理穂子はなかなかドアを開けようとしない。

 男は焦れたように、幾度も呼び鈴を押し続ける。

 隆志が思わずバイクから腰を浮かせようとしたその時、アパートのドアが勢いよく開いた。


 男は理穂子の開けたドアに危うく弾き飛ばされるところだったが、器用に身を引いて、逆に大きく開かれたドアの隙間に身体を割り込ませて、理穂子に扉を閉めさせないようにした。

 理穂子が目に涙を溜めて、何事か大きな声で抗議するように口を開いたのが見えた。

 ここからでは、二人の間にどんな会話が交わされているのか聞き取れない。

 腕を振り上げ男の胸を叩こうとする理穂子の細い手首を、男は逆に強い力で掴んで、理穂子を自分の胸に抱き寄せた。

 理穂子は尚も抵抗しようともがいていたが、やがて男の胸の中で大人しくなり、静かに肩を震わせて泣き始めた。

 男は理穂子を抱いたまま部屋の中へと滑り込んだ。


 パタン……


 と小さな音をたてて閉じられた扉が、部屋の中の温もりと一緒に、隆志を締め出した。

 後には冬の凍て付く寒さの中で、一人電柱の影に身を潜めた隆志だけが取り残された。

 隆志は乱暴にバイクのエンジンをかけると、そのまま180度方向を変えて、理穂子のアパートを後にした。

 めちゃくちゃにスピードを出して、夜の下町を駆け抜けた。

 一刻も早く、その場から離れたかった。



 理穂子と別れてから五年がたっている。

 十八歳から二十三歳。

 自分が離れた五年の月日の間に、理穂子は大人になったのだ。



 そして、女になった。

 隆志には、預かり知らぬところで。




「あ! おはよう。ライダーのおじちゃん!!」


 隆志のバイクが到着すると、いつものように実は保育所の玄関から飛び出してきた。

 隆志は無言でカゴの中の朝刊の束を一つ摘み上げると、無造作に実に手渡した。


「じゃあな」


 軽く手を上げると、実に一瞥もくれず隆志は行こうとした。いつもとは違う隆志の様子に、実は目をパチクリさせて隆志の袖を掴んだ。


「もう行っちゃうの? 今日はライダーのバイク、触らせてくれないの?」

「……忙しいんだよ」


 隆志は実の腕をそっと振り払った。実は頬を膨らませて、顔を赤くしている。

 冷たい隆志に怒っているようだ。


「そんな目で見るなよ」


 隆志は気まずそうに実を振り返った。


「また明日、な? 今日は本当に急いでるんだよ」

「おじちゃん、何か怒ってる」

「怒ってないよ」

「怒ってるから、バイク触らせてくれないんだ」

「怒ってるのは、お前だろ」


 隆志は実の膨れたままの頬を見て、困ったようにため息をついた。

 出来れば早くこの場を立ち去りたい。昨日のことがあったばかりで、理穂子の側には居づらかった。


「なあ、機嫌直せよ」


 そう言って、隆志が実の額に手をかけたとき、隆志は実の額のあまりの熱さに驚いた。


「おい、お前熱あるんじゃないのか?」


 隆志がバイクから降りて実の前に膝を着くと、実は真っ赤な顔のまま、隆志の腕の中でヘナヘナと崩れ落ちた。

 赤かったのは怒っているからではなく、熱のせいだったのだ。


「おい! しっかりしろよ、おい!」


 隆志は実の小さい身体を揺すったが、実はもうぐったりとしていて、荒い息をつくだけだった。


「ああ、もう。しょうがないな!」


 隆志は実の身体を横抱きにすると、急いで保育所の中へ入っていった。

 玄関の扉を叩きながら、大声で叫んだ。


「すみません! こいつ、熱があるんです!早くあけてください!」


 部屋の明かりが灯り、すりガラスを通して中で人の動く気配がした。

 慌てて開かれた扉の向こうで、エプロン姿の理穂子が立っていた。



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