(12)
原付バイクに朝刊を載せ、新聞の重みに軋むタイヤの音を聞きながら、早朝の下町を飛ばす。
まだ日も昇らない真冬の早朝は、切れるほどの寒さが身にしみる。
隆志はヘルメットの中に押し込んだタオルを両耳の脇から垂らして、首筋から口元を覆う。そうすると、わずかでも冬の凍て付く空気から身を守れる気がするのだ。
隆志に任された配達ルートの中には、理穂子が勤める保育所もある。
配達の一番ラスト、全ての新聞を配り終わった最後の一件が、目的の場所だった。
プスン……
という情けない音をまだ眠りから覚めない静かな下町に響かせて、隆志は理穂子の保育所の前で原付バイクを止めた。
夜は東の空から少しずつ白み始めてはいたが、保育所は玄関先の古びた電灯が一箇所明かりを灯すだけで、中は暗く静かだった。
隆志は新聞の一束をつかみ出すと、跨っていたバイクをそっと降りた。
鉄製の古い門扉の前の小さな郵便受けに手にした新聞を投げ込もうとしたその時、保育所の玄関が軋んだ音をたてながら、細く静かに開いた。
咄嗟に身を隠そうと構えた隆志は、扉の隙間から覗く小さな影に気がついて動きを止めた。
見ると、玄関のわずかな隙間から抜き足差し足で、小さな男の子が出てくるところだった。
男の子は玄関の扉の隙間から完全に顔を出すと、隆志の姿を認めて嬉しそうにニカッと笑うと、一目散に隆志に向かって駆け寄ってきた。
「ライダーだ! 仮面ライダーだ!!」
男の子はそう叫ぶと、困惑する隆志にお構いなしに、隆志の乗ってきた原付バイクの周りを嬉しそうにクルクルと回った。
世情に疎い隆志でも、子どもに大人気のドラマ『仮面ライダー』の存在くらいは知っている。主人公の乗るバイクとは似ても似つかない中古のオンボロバイクだが、男の子にとっては同じらしい。
「悪い奴、やっつけに行くんだろ? ボクも連れてってよ!」
男の子は、この前理穂子と一緒にいた子だとすぐにわかった。
少し上を向いた鼻がやんちゃそうな様子をかもし出していて、その鼻の頭にはいくつかの薄茶色いソバカスが散っていた。
「ボクずっと待ってたんだぜ! 仮面ライダーのおじちゃんが来るの」
白い息を吐きながら瞳をキラキラ輝かせる男の子に気圧されながらも、ここは男の子の話にあわせた方がいいと判断して、隆志は男の子のかたわらに膝を付いて目線を合わせた。
「そうだよ、ボク。俺が仮面ライダーのおじちゃんだ。暗いうちに、気付かれないように悪い奴らを倒しに行くんだ」
「やっぱり」
男の子はうっとりしたため息を漏らすと、隆志の答えに満足そうに頷いた。
「でもな、これは誰にも秘密の作戦なんだ。こうやって新聞を配るフリをして、敵を油断させなきゃいけない。だから、ボクもおじちゃんのこと、秘密にしてくれないかな?」
隆志が男の子の肩を掴む手に力を込めると、男の子は神妙に頷いた。
「分かった。ボク、誰にも言わないよ」
なぜか声までヒソヒソ声で、男の子は固い決意を込めたような目で小指を差し出した。
「ボクとライダーの秘密だね」
「ああ」
隆志も男の子に合わせて小指を差し出す。
小さな軟らかい小指に自分の指を絡めると、隆志は思わず自然に笑みが零れて来た。
「ねえ、ライダー?」
男の子は原付バイクに跨る隆志の背後から声をかけた。隆志が振り向くと満面の笑みで言った。
「明日も来る?」
隆志は微笑み、男の子の頭を軽くポンポンと叩いて言った。
「今すぐ、暖かい部屋の中に入っていい子にしてたら、また来るよ」
男の子は自分の鼻をすすり上げて笑うと、一目散に出てきた時と同じように、細い玄関の隙間へ身体を滑り込ませて消えた。
その日からこの珍客は、本当に毎朝、隆志が原付バイクで現れるのを玄関の向こうで待つようになった。
「なあ、そんなに毎日出迎えてくれなくてもいいんだぜ?」
隆志は、毎日飽きもせず、バイクの音が近づいてくると同時に保育所の玄関を開けて飛び出してくる男の子に、少し困ったような顔で言った。
だが、男の子の方はそんな隆志にかまわず、郵便受けに新聞を投函する隆志の傍らでしゃがみこみ、膝の上に頬杖を付いて隆志の原付バイクを眺めている。
「お姉ちゃんも理穂ちゃん先生も寝てるもん。秘密はバレないから大丈夫だよ」
訳知り顔の男の子に苦笑しながら、隆志はそれ以上は何も言わなかった。
男の子は自分の名を実と名乗った。年子の姉も同じ保育所に通っているらしい。
仕事が深夜にまで及ぶ忙しい両親が、実たち兄弟を一緒に夜間保育もしてくれるこの民間の保育所に入れたことが、実の拙い会話からも見て取れた。
最近では夫婦共働きの家庭も増えてきたとはいえ、宿泊を伴う預け入れは、この保育所の中でも実と姉だけのようだった。
その時、実が細く開けっ放しにしていた玄関の向こうの部屋で明かりが灯り、すり硝子を隔てて人の動く影が揺れた。
「理穂ちゃん先生! 実がまた一人で道路に出てってるよ」
中から女の子の尖った声が聞こえてくる。
玄関の扉が開けられた瞬間、中から実よりも一回り大きな女の子と、理穂子が顔を出した。
理穂子は以前見た時同様、ピンクのギンガムチェックのエプロンを下げていた。
「実! いけないんだ。理穂ちゃん先生にしかってもらうからね」
女の子の言葉に実は唇を尖らせながら反論した。
「だって、ライダーが来てたんだもん。秘密のお話してたんだもん」
「……ライダー?」
尋ねる理穂子に、実は上機嫌で答えた。
「仮面ライダーのおじちゃんだよ。毎朝、ここから秘密のお仕事しにいくんだ。理穂ちゃん先生にだって教えられないよ。だって、男と男の約束だもん。ね、ライダー?」
そう言って実が振り返った時、隆志の姿は既になかった。
「あ、あれー?」
実は困惑した顔で、辺りをキョロキョロと見渡す。
「ウソつき。いけないんだー」
女の子がバカにするように鼻を鳴らした。実は自分よりも若干上背のある女の子に悔しそうに言い返した。
「ウソじゃないやい。本当に、さっきまでここに……」
その時、エンジンをふかす渇いた音が路地に響き渡った。
理穂子はハッと顔を上げ、突っかけてきたサンダルのまま、保育所の前の細い車道に飛び出した。
「あ!」
原付バイクがこちらに背を向けて、通りの向こうへと消えるのが見えた。
「まさか……」
長く緒を引くバイクのエンジン音を聞きながら、理穂子はいつまでもバイクの消えていった先を見つめていた。