(11)
初めて訪れる東京は、モザイクのように太陽の光に乱反射する高層ビルが立ち並び、その合間を縫うようにして新たなビルが成長していく途中だった。
隆志は電車の窓からそれらを眺めながら、隆志は手のひらの中の小さな紙切れを広げた。
アカリに渡された住所を頼りに、理穂子が勤めるという民間の保育所を探しすつもりだった。
東京駅についてから、路線図で自分の目指す駅を確認した後、隆志は都内をグルリ一周するこの電車に乗り込んで、まだ空いている早朝の電車の窓に鼻先をつけるようにして、流れていく景色を堪能した。
やがて目指す駅のホームに電車が滑り込むと、隆志は慌てて粗末なスポーツバック一つを抱えて電車から飛び降りた。
理穂子が住むという街は、これまで隆志が見てきた冷たいビル郡が成長する一角と、昔ながらの下町の街並みが同居したところだった。
隆志は一つしかない改札を出ると、浮浪者が惰眠を貪る高架下を潜り抜け、駅から続く商店街の通りに足を踏み入れた。
シャッターの開く音が通りに響き渡り、これから始まる一日を予感させる。
隆志はそのまま歩を進め、手元の紙とにらめっこをしながら、理穂子の勤める保育所を探した。
理穂子の勤め先は、ビルとビルの隙間に挟まるようにして建った、小さな木造二階建ての古びた建物だった。
表に保育所の看板が出ていなければ、そこが子どもたちを預かる施設だとは到底気付かない。
シン――とした佇まいに、隆志は思わず腕の時計を見やってため息をついた。
現在、朝の七時。
保育所が開いているはずがない。
苦笑して踵を返そうとした時、保育所の扉が開いて子どもが一人飛び出してきた。
隆志は驚いて、慌ててビルの陰に身体を隠した。
「今、音がした! パパだぁ!」
飛び出してきたのは小さな男の子で、さっきまで隆志が立っていた場所まで駆けてくると、キョロキョロと道路を見渡した。
「あれぇ?」
舌足らずな声で首を傾げながらも、懸命に道路の先へ目を凝らす。
「実君! 勝手にお外出ちゃダメだよ!」
そんな男の子の後を追うように、中から慌てて一人の女が飛び出してくる。
ピンクのギンガムチェックのエプロンをかけたその女の姿を見た時、隆志の鼓動がビクンッと跳ね上がった。
「理穂ちゃんせんせー、パパの音がしたんだよ。本当だよ」
男の子は唇を尖らせて、女のエプロンの端を掴んだ。
女は男の子のやわらかそうな髪に優しく手を置くと、男の子の目線の高さまで身体を屈めて、優しく言った。
「パパはお仕事だよ。でも、今日の夕方にはお迎えに来てくれるって言ってたから、それまで先生と遊んで待ってようね」
男の子は不満そうに膨れながらも、女の優しい言葉にやがてコクリと頷いて、女に手を引かれて再び古びた保育所の中に戻って行った。
隆志は二人が完全に建物の中に入るのを見届けた後に、ようやく息を継いだ。
まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、胸元が苦しい。隆志は汗染みが浮き出たシャツの襟元を掴むと、大きく深呼吸を繰り返した。
幼い時から変わらない生まれつきの薄茶色の髪を、細いお下げ髪にしていた。
色白の頬は少しこけたようにも見える。
五年の月日を経て尚、隆志の心を捕らえて離さない、理穂子がそこに立っていた。
早朝の街をブラブラしながら、やがて朝食をとりに古びた定食屋に入った。
カウンターとテーブル席が二つしかない粗末な店だったが、隆志が注文した定食は安いながらも美味かった。
味噌汁を啜りながら店の隅に置いてあるテレビを見上げると、アナウンサーが無表情に朝のニュースを伝えていた。
その日のトップニュースは、児童擁護施設の児童殺害事件で容疑者とされた保母が再逮捕されたというニュースだった。
保母――の言葉に、隆志の箸が止まる。
先ほどの理穂子の青い顔が蘇る。
恐らく、仕事で迎えにこれない父母に代わって、あの保育所では夜間からの子どもの預かりもやっているのだろう。
認可の保育園ではカバーしきれない部分を、理穂子たちのような施設が支えている。
考えるだに過酷な労働条件の中、あの華奢な身体でただ一人頑張っている理穂子を思うと、隆志は目の奥がジワリと熱くなってくる。
隆志は店の主人に気取られないように、慌てて味噌汁の残りを流し込んだ。
この街で、理穂子に気付かれないように理穂子の側に居よう。
隆志はそう決めていた。
店の隅に置かれたマガジンラックに、黄色く変色した漫画雑誌と折り重なるようにして積み上げられた求人誌を持ってきて、隆志はテーブルの上で捲って見た。
どれも古い求人広告だが、すべていっぱいになってしまったとは考えにくい。
隆志が適当にページをめくっていった時、いいところに気がついて手が止まった。
新聞配達員募集――
住み込み。三食賄い付き。
住所を見ると、すぐ近くだった。
隆志はカウンターの中にいる店の主人を盗み見て、そっと雑誌を膝の上に隠すと、そ知らぬ顔で目的のページをピリピリと破いて、ジーパンのポケットにねじ込んだ。
※
新聞配達、タクシー運転手――は、流れ者にはもってこいの仕事、とは誰に聞いた言葉だったか。
年老いた新聞配達所の所長に、しごく簡単な契約書まがいのものを書かされて、拇印を押すために朱肉で汚した親指をシャツの裾で拭いながら、隆志は苦笑した。
今の自分に、これほどぴったりの仕事があるだろうか。
身分も資格も、保証人さえもいらない。
住む家と食事には困らず、影のように理穂子を見守るだけの生活には、本当にもってこいだった。
それから先に、何か目標があるわけではない。
東京に出てきたからと言って、そこで何かをしようという夢もなければ野心もない。
理穂子の側に気付かれないように寄り添っていても、それが何になるか、今の自分には分からない。
それでも、今はそうしなければならない気がしていた。
隆志は今年で二十三歳になる。