(6)
亮子が目を覚ましたのは、もうすっかり朝になってからだった。
冷え込む店内の空気に大きなくしゃみを一つして、身体を起こした。
頭が割れるようにズキズキ痛む。
目を開けるのもやっとだった。
肩にかかっていた膝掛けが床に落ち、一気に襲ってきた寒さに自分の肩を抱いて大きく身震いした。
「……隆志?」
薄暗い店内をグルリと見渡す。
雑然とした店の中に人の気配はない。
「隆志?」
今度は先ほどよりも一段大きな声で呼びかけた。
急に不安がこみ上げ、痛む頭を押さえて椅子から立ち上がった。
「隆志!どこにおると? 返事せんね」
カウンターの奥へ進み、マサとヒロ、智之が雑魚寝する部屋にツカツカと入っていく。
「隆志ッ!?」
「……ん?何だよ、うるさいなぁ」
ムクリと身体を起こしたマサが、眠い目を擦りながら蛍光灯の光に逆光になった亮子の姿をとらえる。
だが、亮子はすぐに目的の人物がここにはいないことを悟ると、不安に顔を歪め踵を返した。
「おい! ちょっと待てよ、アカリさん。アカリさん!」
マサは更に奥の部屋で眠るアカリに向かって声を張り上げた。
亮子はそのまま店を飛び出すと、朝霧に煙る路地裏を隆志の名を呼びながら一心に駆け抜けた。
「隆志ッ!! こんウソつきが!! 許さんとよ。約束したばいね。傍におってもええって、昨日約束したばっかやないとね!! 隆志、隆志……」
息を切らせて、亮子はその場に崩れ落ちた。
悔しくて、哀しくて、涙がとめどなく溢れてくる。
冷たいアスファルトを拳で叩きつけて、駄々っ子のように泣き喚いた。
華奢な拳からはあっという間に血がにじみ、アスファルトを赤黒く汚したが、亮子は拳を叩きつけるのをやめなかった。
「もう止めなさい」
その時、振り上げられた拳を、後ろから掴まれた。
亮子はキッとその方向を振り返った。
アカリが亮子の手を押さえつけ、厳しい顔をして首を左右に振った。
「隆志君には、隆志君の道があるの。あんたにはあんたで、ここでやるべきことがあるように。信じなさい。隆志君が好きなら、信じて待ちなさい」
亮子の黒目がちな大きな目から、大粒の涙が零れ落ちた。
寒さと涙に鼻を啜ると、亮子は一際大きな声を上げながら、アカリの胸に身体を預けて、泣きじゃくった。
アカリはそんな亮子の細い肩に腕を回しながら、その背中をいつまでも優しく擦ってやった。
「アカリさん、どうっすか?あの子の様子は」
マサが亮子を寝かせた店の奥の部屋を覗き込みながらたずねた。
「今はぐっすり眠ってる。長旅の疲れと、興奮して泣いたり喚いたりしたから、体力も限界だったんじゃないかしら」
「……こんなところまで追っかけてきて、あの子、本当に隆志のことが好きだったんだな」
マサが珍しく神妙にうつむくと、アカリは苦笑してマサの肩をポンと叩いた。
「……火の国の女は情が深いのよ」
「あ、それよく分かる」
「納得するんじゃないわよ、バカ」
アカリはマサの額を小突いて、朝のコーヒーを入れるために店内に戻っていった。
亮子は夢を見ていた。
初めて隆志に出会った頃の夢だ。
あの時、亮子はまだ十三歳だった。
※
港の近くに不審者が出る――
そんな噂話を聞いたのは、昼休み、亮子が一緒に暮らす祖母に作ってもらった弁当にちょうど箸を付けた時だった。
「すごい、気味悪かったと」
小学校から一緒の仲良し四人組で、窓辺の日当たりの良い席を陣取りながら、話を切り出した友は大げさに眉をしかめて見せた。
「何か小さい箱、手に持っとってな、あーとかうーとか言いながら、ウチの方寄って来たと」
「そんで、あんたどうしたん?」
別の少女が促すと、聞かれたほうの少女は、心なしか目を輝かせて続けた。
「いやー! 痴漢っ! 言うて、突き飛ばして逃げたわ」
その先もいかに自分が大変な思いでその場を逃げ出したかについて延々と語っていた少女は、ふと目の前で佃煮の欠片を唇の端につけたまま、弁当を貪っている亮子に目を留めて言った。
「ちょっと、亮子。あんた、人の話聞いとるんか?」
咎められた亮子は、親指で唇の端の佃煮の欠片を拭うと、片目でチラリと熱弁を奮っていた少女を見上げた。
「聞いとるよ。で、あんた、いつ痴漢されたと?」
「は?」
「おっぱいでも触られた? それとも、目の前で脱がれた?」
亮子の問いかけに、周囲の少女もザワザワし始めた。
「……そ、それは……」
やり込められた少女は、耳まで真っ赤になりながら言い返した。
「これから、触られそうやったんよ!」
「残念やけど……」
亮子は水筒の茶をゆっくり啜りながら首を横に振った。
「そんなぺったんこの胸、触られそうになるには、十年はかかるな」
顔から今にも火を噴きそうになる少女とは裏腹に、周囲からはドッと笑い声が上がった。
「自意識過剰やわぁ!」
「ホンマは触られたかったのと違うかぁ?」
「気味悪いとか言うて、本当はええ男やったんやろ? 白状しんしゃい」
周囲の揶揄の声に最初は必死になって抵抗していた少女だが、隣の少女に突かれると、薄っすらと頬を染めて頷いた。
「……ちょっとだけな」
指で『ちょっと』の仕草をする。
「……背ぇが高くて、汚いカッコしとるけど、ええ男やった……かな?」
亮子は鼻を鳴らして、水筒の残りの茶を全て飲み干した。
帰り船で賑わう漁港を横目で見ながら、亮子は帰路に着く。
気の置けない仲間と別れて、自宅までの距離を一人歩くこの時間が、亮子の一番好きな時間だった。
幼い時分に両親を交通事故でいっぺんに亡くした亮子は、母方の祖母であるハルに育てられた。
文字通り母親代わりを努めてくれたハルは、それこそ無償の愛情を孫娘に注いでくれたが、亮子はこの年になるまで、父親のぬくもりを知らずに育った。
幼い頃は近所に住む祖母の弟夫婦も随分可愛がってくれたそうだが、二人とも亮子が物心着く前に病で急逝している。
元来『男』という存在に免疫がないせいか、亮子は中学校に入ってから、急にソワソワと気になる男子の噂話をしたりするクラスメートについていけずにいた。
だから、今日みたいなことがあると、つい皮肉って遣り込めてやりたくなるのだ。
それは亮子本人にも気付かないところに芽生えた、自由に恋の予感やトキメキを口にする彼女達への微かな嫉妬心だったかもしれない。
学生鞄を肩の上に放り上げて、右手に広がる夕日の燃えるような朱を写す海へ目をやった。
その時、潮風に頬を張られてふと海から目を逸らすと、こちらへ向かって歩いてくる人影に気がついた。
夕日に逆光になり黒い塊にしか見えないその影が徐々に近づいてくると、その手の中に大切そうに抱えられた、小さな陶器の箱のようなものが目に入った。
港の近くに不審者が出る――
昼間の友の声が頭を亮子の頭をよぎった。