(3)
「こっちにおいでよ、隆志君。背比べ、やってあげるよ」
「やめろよ、ガキみてぇ」
「いいから、おいでって」
智之は嫌がる隆志を無理やり柱のところまで連れて行くと、柱の根元に隆志の足をピタリと揃えさせ、カッターナイフで新しい傷をつくった。
「隆志、二十二歳っと!」
「やめろって、恥ずかしいなぁ」
気付いた隆志が慌ててマジックを奪おうとしたが、もう後の祭りだった。
「本当に、大きくなったんだねぇ」
柱の傷を目で数えながら、智之はポツリと呟いた。
小さい頃から隆志の成長を刻みつけていた柱は、今、等身大の隆志を映して、過ぎさった時間を静かに物語っていた。
隆志が物心つく前からこの長屋にあった、古い柱時計の音が、十二時を差して低く響き渡った。
居間に隆志の分と自分の分、二組の布団を敷きながら、智之は終始嬉しくて仕方ないような顔をしていた。
「さあ、どうぞ。昨日干したばかりだからフカフカだよ」
智之が今さっき敷き終えたばかりの布団をポンッと叩くと、蛍光灯の明りの下で小さな埃がキラキラと舞った。
隆志は智之に言われるまま、日を吸ってよく膨れた布団の中に身体を滑り込ませた。
智之がその足元から、湯たんぽを差し入れる。
「温かいだろ」
「……うん」
隆志が両足を擦り付けるようにすると、湯たんぽの熱がジンワリと伝わってきた。
「さあ、寝よう」
智之が天井から垂れ下がった蛍光灯のスイッチを引くと、辺りは闇に包まれた。隣の布団に智之がすかさず潜り込んだのが気配で分かった。
「おやすみ」
「……うん」
布団にしみこんだ太陽の匂いが隆志の鼻先をくすぐる。
明るい健康的な匂いは、智之そのものを連想させた。
母と二人の暮らしの時は、年中湿った布団が居間に敷きっぱなしであった。
真冬でも冷たいせんべい布団にしか寝たことがなかった。
湯たんぽの暖かさもあいまって、隆志は思わず目頭が熱くなった。
「……智之さん」
「……うん?」
半分寝ぼけたような智之の声が、隆志に反応する。
「何だい?」
「……どうして、何も聞かないの?」
「え?」
隆志は智之の方へ寝返りをうって暗闇の中で智之の顔を覗き込んだ。
「この五年、俺がどこで何をしてたのか。どうして聞かないの?」
智之はクスリと、鼻を啜るような音で笑った。
「……君が、話したそうだったから」
「俺が、話したそう?」
隆志は暗闇の中で怪訝な顔で聞き返した。
「話したくなさそう、じゃなくて?」
「そうだよ。準備の出来た人間を、急かす理由なんかどこにもないだろう?」
智之は布団の中から手を出して、隆志の肩をさすりながら言った。
「僕が急かしたら、せっかく話そうとしてたことも、話せなくなってしまうだろう。君は、昔からそういう子だったもの。いつも心の中をいっぱいにして、でも口にはしないでじっと抱えてる子どもだった」
隆志は口の端を歪めて、またゴソゴソと布団にもぐりこんだ。
「……あんたは、いっつも考えすぎなんだよ」
「そうかい?」
智之は涼しい顔で微笑んだ。
「他人のことなんかほっといて、もっと自分のこと考えろよ」
「僕ほど自分のことを考えてる人間はいないと思うよ。僕は利己主義だからね、自分が好きなようにこの家に住んで、自分が君にまた会いたかったから、ずっと待っていたんだ」
「それじゃあ、俺が何のために出て行ったのか、分からないじゃないか!」
隆志は乱暴に寝返りを打って、智之に背を向けた。
「……せっかく、斎木に返してやったのに」
消え入るように呟いた隆志の声を、智之の耳はきちんと捉えていた。
その後に続いた、小さく鼻を啜る音も。
智之は何も言わず、隆志の背中を布団越しにポンポンと優しく叩いた。
「明日、『不知火』へ行ってみようか。アカリさんたちも、喜ぶよ」
隆志は返事をせず、寝入ったフリを決め込んだ。
静かな夜の中で、自分が涙で枕を濡らしているのを智之に知られたくなくて、懸命に息を殺して、唇を噛みしめた。
智之は優しく、気付かずフリをしてそっと寝返りをうった。
表の道路を走るトラックの明かりが、二人が沈んだ夜の底を流れては消えて行く。
夜は二人を包み、静かに更けていった……
※
翌日の夕方、智之は隆志の背中を押しながら「不知火」への道を歩いていた。
寂れた店の電飾の看板はそのままで、地下の店内へ続く階段の上に立ったとき、隆志は五年間の歳月を一瞬忘れた。
高校の制服のまま、毎日のように寄っていた「不知火」。
店の扉を開ければ、いつでもアカリやマサ、常連客の日雇い労働の男たち、そして途中からは智之も加わって……
かけがえのない場所だった。
今隆志の目の前に迫っているその場所が、その扉を開けた時、あの親しんだ空気が変わっていたらどうしよう。そんな不安にかられるのも事実だった。
智之はそんな隆志の心中を察してか、そっと隆志の肩を叩くと「大丈夫だ」と言うように軽く頷いて、自分から先に店への階段を降りて行った。
「あら、智之さんいらっしゃい」
智之が扉を開けると、開店前の準備に追われていたアカリはすぐに振り返って声をかけた。
智之の肩越しに聞く、五年ぶりのアカリの声は、相変わらず溌剌としていて、気風のいいものだった。
「マサくん、今日は一段とキマッてるね」
「おうよ!ほら、聞いたかよ、アカリさん。やっぱ智さんは分ってるよなぁ」
すきっ歯から空気が抜けるように話すマサの声も相変わらずだった。マサはカウンターを軽く飛び越えると、店の中央に躍り出て、店内に流れている『スティルアライブ』の曲に合わせて軽妙に腰を振り出した。
「ちょっとマサ!店でその妙な踊り踊ったら首だって言ってるはずでしょ!智之さんも笑ってないで止めてよ。その服もその頭も、見てるほうが恥ずかしいわよ」
マサは上下白いスーツに、ポマードでガッチリとキメたリーゼントの髪を揺らしながら、唇を尖らせて懸命に腰をくねらせている。
「どうして?マサくん、ジョン・トラボルタにそっくりだよ。イカしてる」
智之は笑いをかみ殺して、踊るマサに片目をつぶって見せた。
今年大ヒットしたアメリカ映画「サタデー・ナイト・フィーバー」を観てから、マサのヒーローはジョン・トラボルタになった。
「もう、智之さんが甘やかすから。マサ、踊ってないで準備手伝いなさい!」
「俺のことは、マサじゃなくて、トニーって呼んでくれよ」
「『サタデー・ナイト・フィーバー』の主人公の名前なんだ」
智之が隆志にそっと耳打ちする。
その映画なら、隆志も既に観ていたので知っていた。
「いいから、早く手伝いな!」
アカリの逆鱗にふれ、マサはしぶしぶ踊りをやめてカウンターへ戻った。
智之の背中で笑いを堪えていた隆志だが、とうとう堪えきれずに噴出した。
アカリとマサが一斉に智之の背後に目をやる。
智之は肩をすくめて、横へ身体をずらした。
「めずらしいお客さん。つれてきたよ」
智之という盾がなくなった隆志は、気まずそうに咳払いしながら、軽く会釈した。