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炎の中へ  作者: 春日彩良
第6話【火種(ひだね)】
24/85

(1)

 朝霧の中、真っ直ぐに伸びた線路はどこまでも続いていく。


 プラットホームから身を乗り出し、果てしなく続く線路の先を目を細めて確認した男は、汚れたナップザックを肩から外しホームに置くと、自分はヒラリと線路に飛び降りた。

 飛び降りた後、先ほど肩から外したナップザックを取り上げ、再び骨ばった肩に引っ掛ける。

 長く伸びた髪が耳にかぶり、無精ひげが薄く鼻の下を覆っている。

 ヒョロリとした長身に相応しい、破けたジーンズに包まれた細く長い足を踏み出して、男は線路の上を歩いて行く。

 足元で、線路に敷き詰められた小石が、男に踏みしめられてジャリッと音をたてる。


 昨日の晩、終電に乗って目的の街を目指したが、一つ前の駅で降りてしまった。

 春先とは言え、まだ野宿するには寒すぎるホームの待合室で、ナップザックを枕に一晩を明かした。

 はっきりとした理由があったわけではない。

 ただ、始発が走る前の線路を、まだ胸を満たす冷たい空気が満ちた時間の中を、一人歩くのも悪くはないと思った。


 いや、それは言い訳だ。

 男は自嘲気味に首を横に振った。


 伸びかけた髪が頬をかすめ、再び耳の上に落ち着く。

 正直、あの街に早く着いてしまうのが、怖かった。

 五年前、逃げるように、今とは逆の方向に走る列車に乗って、住み慣れた街を後にした。

 クリスマスの朝だったが、まだ夜明け前の凍て付くような寒さが、今よりも年若い彼の胸の奥深くまで入り込み、涙さえも氷らせた。


 二度と帰ることはないであろうと思っていた街に向かって、自分は再び歩を進めている。

 自分の人生の中で、心から大切だと思えたただ一人の人を、置き去りにしてきた街へ。

 男が歩く側から、徐々に夜は明けていき、やがて工場が立ち並ぶ街の輪郭が白々と露わになりだした。

 灰色がかった町並みは昔と変わらないはずなのに、今は何となく小さく薄汚れて見える。

 この五年の間に三センチ伸びた、自分の身長のせいだけではあるまい。


 男は線路から外れて、懐かしい街の中に入った。

 まだ目を覚ましてはいないが、あと三時間もすれば、街は起きだし、工場の機械の音、そこで働く人々の声が、賑やかな洪水のようになって街全体を満たすだろう。

 男は街の表通りからは外れて、川沿いの細い道を歩き出した。

 幼い頃を過ごした、長屋の群れを目指して。



***



 その長屋の一棟は、朝日を背景にして静かにたたずんでいた。

 目を細めれば、日の光の中をキラキラと細かい埃が舞いながら、反射しているのが分かる。

 男は戸口の横の、風雪にさらされ黄色く変色した表札に目をやった。

 

 『島貫――』


 インクは滲んでいたが、確かにそう書かれていた。

 男は思い切って、引き戸に手をかける。

周囲の長屋の住民たちを起こさないように、細心の注意を払ってソロソロと力を入れると、扉はあっけないほど簡単に開いた。


「……なんだよ、これ」


 開けた途端に、埃がバサッと音をたてて舞い上がるような様を想像していた男は、部屋の内部の状況を見て思わず呟いていた。

 部屋は、五年前に男が出て行った時のまま、いや、もしかすると出て行った時以上に小奇麗に磨き上げられ、チリ一つ落ちていなかった。

 履きつぶしかけたボロボロのスニーカーを脱いで、男は玄関にあがる。

 居間に入ると、部屋の片隅では、ご丁寧に三折りに畳まれた布団が二組鎮座し、隆志を出迎えていた。

 五年間も空き家だったとは思えない、今でも誰かがそこに住んでいるかのような部屋の様子に、男は急に不安になり、急いで玄関を飛び出してもう一度表札を確認した。


 間違いない。

 表札には確かに『島貫』と書いてある。


 男は首をひねりながら再び室内に戻ると、今度は部屋中をくまなく点検していった。

 かつての自分の部屋は、出て行った日に開いていた参考書のページそのままで、分厚い埃が被っていた。

 男は部屋の柱に手をかけながら、軽く咳き込む。ギザギザした感触に、柱に残された傷を目を細めて見やる。

 数センチの幅で、それは丁度今の男の肩の高さになる位まで、一年毎に、同じ日付、同じ文句が几帳面にマジックで書かれていた。


『隆志、十二歳』と書かれた所から急に柱の文字の筆跡は変わり、十三歳と十四歳の二つの傷の横に書かれた字は、それまでの丸みを帯びた女のような字ではなく、生真面目そうな固い字に変わっていた。柱の傷はそこで途切れている。

 男は柱の傷を一番下から一つ一つなぞっていき、やがて今の自分の目線の先にある、無傷の柱までくると、そこに額を付けて息を吐き出した。

 十四歳で止まった柱の傷と、今額が当たるところまでの無傷の時間の間に、実際にはどれだけの時間が流れ、何を失い、何を得てここまできたのか。

 答えの代わりに、一瞬の眩暈に襲われる。


 男はかつての自分の部屋を出て、居間に戻った。

 急に、ドッと疲れがこみ上げてきた。

 男は部屋の隅に積まれた布団の側に膝をつき、半分だけ倒れこむような形で身体を預けた。

 布団は適度な弾力をもって男を受け止め、男の体重を包み込む。

 鼻先には、日の光をいっぱいに浴びた、よく干された布団特有の、明るい太陽と埃のにおいが踊っていた。

 男は思い切りその匂いを吸い込むと、そっと目を閉じた。

 幸福な陽だまりの匂いに包まれながら、男はいつしか深い眠りに落ちて行った。



***



 どれほどの間、眠ってしまっていたのか。

 男が再び目覚めた時、既に太陽は西の空に傾きかけていて、部屋の中には燃えるような西日が差し込んでいた。


「……いてて」


 妙な体勢で寝てしまったので、体が軋むように痛む。

 顔をしかめて身体を起こしたとき、男は居間の戸口に佇む人影を見た。

 逆光になって顔はよく見えないが、その人影も、男の姿に驚いたように戸口に立ち尽くしている。


「……あ、あんたは」


 人影が手にしていた買い物袋を取り落とした。

 ゴトリ――と音がして、中からネギや割れたタマゴが顔を覗かせた。



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