(4)
「悪いが、調べさせてもらったとよ」
自分が愛した男によく似た初老の海の男は、それでもその声音に微塵の労わりも乗せずに言った。
ある日突然、息子が自分の前から姿を消した。
預けていた託児所に迎えにいくと、所内は騒然としていた。半狂乱になって探し回り、ようやく探し当てた犯人を知った時、美華は信じられない気持ちと共に、どうしようもない怒りで全身が震えた。
連れ去ったのは、今は亡き最愛の男の両親だった。
男との間に子どもが出来ていたことは誰にも打ち明けなかった。男の死と共に、そっと男と過ごした港町を離れ、一人誰も知らない街で子どもを産んだのだ。
美華の生涯の中で唯一大切だと心の底から感じられたものが、突然何の前触れもなく土足で踏みにじられ、奪われた。
美華は憎しみに満ちた目で、目の前の初老の男を睨んだ。だが男は、少しも臆することなく、残酷な言葉を紡いだ。
「あんたが、東京で何をしてきたか、わしらは全部知っとるとよ」
そう言うと、男は分厚く膨れ上がった茶封筒を美華の前に投げ出した。
バサバサバサッ……
投げ出された拍子に封筒から飛び出た写真が、美華の膝の前に広がる。
写真に写る男の横顔を見た瞬間、美華は息を飲んだ。
「……あんた、自分の養父と、デキとったばいね」
初老の男の言葉が、どこか遠いところで耳鳴りのように聞こえる。
「そんな女に、大事な徹司の忘れ形見ば、預けられん。あんたに、隆志を育てるんは無理ばい」
(……ねぇ、美華ちゃん、これは美華ちゃんとパパの秘密だよ)
(憎い子だねぇ。こんなに小さいのに、もう女の目をしているよ)
ネットリと厭らしい、本気で死を願った男の声が、時間を越えて美華の耳の頭の中で渦を巻く。
(自分の父親にまで色目使うたぁ、おまえは本当に恐ろしい子だよ!)
浴びせられる罵声。
美華の母親のものだ。
戦後の荒廃した街の中で、母は自分を売って日銭を稼ぐ娼婦だった。
トウが立って働き辛くなると、反吐が出るような下衆な成金男を捕まえて所帯を持った。
美華が十二歳の時だった。
望むと望まざるとに関わらず、母ゆずりの美貌は、美華にとって命取り以外の何物でもなかった。
成金男が美華に手をつけるのに、時間はかからなかった。
母は助けてはくれなかった。それどころか、日々老いていく自分と、目に見えて美しく成長する娘の姿を重ねて、美華の方が男を誘ったのだと美華に辛く当たった。
高校卒業を待たずに、美華は家を飛び出した。
行く当てなどない旅だったが、地獄のような家にいるよりマシだった。生きていく術はいくらでもある。
あの肥え太った醜悪な男に抱かれるのを息を殺して耐えるより、見も知らぬ男を相手にして生きていく方が幾分良いか知れなかった。
そんな気持ちで各地を渡り歩いて、辿りついた先がこの港町だった。
徹司に出会ったのも、この街だった。
***
「俺は、お前好かん」
徹司が初めて美華に吐いたのが、このセリフだった。
高校を中退して、色々な街を渡り歩いた末、気まぐれに立ち寄った港町で美華は徹司に出逢った。
街の飲み屋で働いたり、自分に色を仕掛けてくる男たちが落としていく金でその日暮らしをしながら、何の目的もなく日々を過ごした。
美華が何もしなくとも、自ら火に飛び込む夏の虫のように、男たちは勝手に美華の美貌に引き寄せられ、美華の思惑とは別の所で争いを始め、それを見た他の住人たちは美華を男を惑わす『魔性』『女鬼』と勝手な名を付け後ろ指を差し続けた。
敢えてそれを否定しようなどとは思わない。
美華が諸悪の根源であると思うなら、望む通りにしてやろう。
両親でさえ、自分をそう扱ったのだから。
その日も、美華を巡って二人の男が争い、一人が刃物を持ち出して暴れたため、事態は大きくなった。
美華が勤めていた一杯飲み屋に通いつめていた若い漁師で、始めは豪快な酒の飲みっぷりを美華も気に入り上手くいっていたが、次第に独占欲を剥きだしにして、美華にも手を上げるなど目に余る行動が増えてきたために、美華自身、辟易していたところだった。
だから、別れるために別の男を誘った。
それを知った男が逆上し、飲み屋に押しかけ暴れたのだった。
緊急事態に呼び出されたのは、その辺りの漁港の若い連中を束ねていた徹司だった。
刃物を持って暴れる男をねじ伏せて、子どものように泣きじゃくる男の肩を叩きながら、店を後にする際、美華を振り向きもせずに言ったセリフだった。
徹司は、他の男たちとは違っていた。
辺り一体で右に出るものがいない程の腕っぷしの強い漁師だったが、普段は無口で無愛想で、美華に向かってニコリともすることがなかった。
「負け惜しみでしょ! あんただって、チャンスさえあれば、私をモノにしたいと思ってるクセに。誰にでも自分を売る女だって知ってるから!」
去り行く背中に向かって叫んだ美華を振り返ると、徹司は心底哀れむように言った。
「つまらん女じゃ」
「何ですって?」
「他人に言われた通りの人間になってやる必要なんて、どこにもないとよ。自分がどういう人間か、決めるのは自分ばい」
それだけ言うと、徹司は再び背を向け、二度と振り返らなかった。
他人に言われた通りの人間になってやる必要なんて、どこにもない――
徹司の言葉は、いつまでも美華の心に残った。