(2)
地べたに投げ出されたランドセルはボロボロで、肩口のところには「たかし」ではない名前がマジックで書かれていた。きっと誰かのお下がりなのであろう。
ヨレヨレにくたびれたランニングシャツは胸元が大きく開いていて、子どものおもちゃのように華奢な鎖骨を際立たせていた。
「よし、たかし君。おウチの人が帰ってくるまで、姉ちゃんと遊んで待ってよ。ただし、その前に……」
アカリはキョトンとしている子どもの頭に、いきなりゴツンッと強烈なゲンコツをお見舞いした。
「子どもが火遊びなんかしたらいかん! 火遊びする子は、神様のバチが当たって、おねしょタレになる言うてうちの母ちゃんも言うてたばい。『おねしょタレたかし』言われたい?」
子どもは、何が起きたのか一瞬把握できないような顔をしながらも、アカリの言葉に押され、ブンブンと力強く首を横に振った。
「よし!そんなら二度と火遊びはせんこと!いいね!」
「……はい」
「分かったらええ。ええ子じゃ」
アカリは満足げに、子どものイガグリ頭を豪快に撫で回した。
「さて、お説教はこのぐらいにして……たかし君、その辺の適当な小石集めんしゃい」
「何するの?」
アカリはニヤッと笑って答えた。
「ゲームじゃ。火遊びと違って、頭使う遊びよ。黒っぽい石と白っぽい石、同じくらいづつ集めんしゃい」
こどもは首をかしげながらも、アカリの言うとおり、小石を集めだした。
だが、集まった小石ではどうしても黒っぽい石が足りなかった。
「仕方ない。たかし君、さっきのマッチ貸しんしゃい」
「子どもが火遊びしたら、おねしょタレになるんでしょ」
子どもは口を尖らせて、アカリにマッチを貸すのを渋ったが、アカリがもう一発ゲンコツをお見舞いする構えをすると、いそいそとマッチを差し出した。
アカリが、つけた火で白い石の表面をあぶっては黒い小石の山に投げ入れると、白と黒の石が同じくらいの量で、子どもとアカリの間に積みあがった。
「さあ、始めるよ」
アカリは地面に木の枝で大きく碁盤の目を書くと、子どもを振り返ってニッと笑った。
「囲碁じゃ。たかし君は、白。私は黒。ええか、この目の上で交代で小石を打っていって、自分の小石で相手の小石を囲んだら、相手の分がもらえる。取った小石の数が多い方が勝ちや」
たった一回の説明で、アカリは無理やり子どもをゲームに引き入れた。
初めこそぎこちなかった子どもだが、ゲームのコツを覚えると、たまにアカリが目を見張るような動きを見せた。
「たかし君、ホントに囲碁やるの初めて?」
「また取った! 姉ちゃん下手くそ」
生意気な物言いに軽くデコピンをお見舞いしながらも、アカリは先ほどから、詳細にこの子どもを観察していた。
賢い子だ――
頑固さを感じさせる眉根のあたりが、確かに似ている。
兄も碁を打つのが上手かった。
でも、まさか……
「隆志っ!」
その時二人の前に、血相を変えた女が突然割り込んできた。
※
「隆志!こっちに来なさい」
息を切らせてアカリと子どもの間に駆け込んできた女は、白い小石を抱えて次の一手を思案していた子どもの手を掴むと、自分の背後に庇うように引き寄せた。
突然の出来事に、アカリは手にしていた黒い小石をポトリと取り落としながら、呆然と女を見上げた。
「あんた、誰?」
ギラギラ光る目でアカリを見下ろす女の顔を捉えたとき、アカリは弾かれたように立ち上がった。
「女鬼!」
「は?」
怪訝な顔をする女に構わず、アカリははっきりとした口調で言った。
「あんたを探して、熊本から出てきたとです。八代アカリ、言います」
「……八代?」
アカリは更にはっきりと、一つ一つ言葉を区切るようにして重ねた。
「海で死んだ、八代徹司の妹の、八代アカリです」
女は初め警戒するようにアカリの様子を隅々まで伺っていたが、やがて背後に隠した子どもの肩を押しながら、小さくアカリに向かって呟いた。
「……ひとまず、家に上がりなさい」
女の肩越しに、子どもはいつまでも後方からついてくるアカリを振り返っていた。