(1)
『白玉か なにぞと人の 問いし時 露と答えて 消えなましものを――』
あれは、真珠ですか。
無邪気なあなたがそう尋ねた時、「ただの露ですよ」と答えて、いっそのこと、私も露のように消えてしまえばよかった。
例えあの時あなたが見たものが、この世のものではない「鬼火」だったとしても、あなたを失うこと以上に、怖いものなど、私には何もなかったのに……
※
『……本当に行くんね?』
「行く。行くも、なんも、もう着いてしもうたもん」
『兄さんらが知ったら、何ていうか』
「高校入学したら、夏休みに一人旅したいてずーっと言うてきて、ぬかりなく準備してきたばい。東京に転校した友達の家に泊まることになって、アリバイもバッチリや。大丈夫、おばちゃんが、ビビりなさんな」
受話器の向こうからは、聞き馴れた潮騒の音が聞こえてくる。
電話の声の主は、少し声を落として、ぽつりと呟いた。
『……徹っちゃんは、もう戻って来ないとよ』
「……そんなん、わあっとるよ」
でも、知りたい――
「心配せんでも、ちゃんと三日で帰るばい。じゃ、あと頼むわ、おばちゃん」
まだ何か言おうとする受話器の向こうの声を遮って、半ば強引に受話器を置いた。
長話にならないように、予め十円しか入れていなかった公衆電話は、案の定何も吐き出しはしなかったが、ついクセで、釣銭返却口を指で触って確認してから、電話ボックスの扉を開けた。
ギラギラ照りつける太陽に向かって、大きく一つ伸びをする。
ふくらみ始めた胸に押し上げられ、伸びをした拍子に、今年四月の入学式前に購入したばかりなのに、既にサイズが追いつかなくなっている丈の短い制服の裾がめくれて、形の良いヘソが顔を覗かせた。
「東京の夏は、暑っついばい」
手をうちわ代わりにパタパタやりながら、都心の同世代の高校生から見たら少々「流行遅れ」とされそうな、野暮ったさの抜けない夏服のセーラーを着た少女は、足元に置いてあった大きな旅行鞄を肩に担いだ。
目指す街は、都心から更に電車を乗り継いで二時間程のところにある。
クシャクシャになったメモ紙をもう一度ポケットの中から取り出して確認すると、少女は大きく一つ頷いて、歩き出した。
※
八代アカリには、高校へ上がったら、絶対に「やる」と心に決めていたことがあった。
八年前――アカリがまだ八つの年、彼女のただ一人の兄、徹司は亡くなった。
アカリの育った漁港界隈では、右に出るものがいないと評判の腕利きの漁師で、若い時分には漁で随分とその名を馳せた父でさえ、一目おくような才能溢れる兄だったが、まだ若干二十一歳であった。
海の事故である。
アカリたちの海には、夏になると海上に現れる、通称『不知火』と呼ばれる青い自然発光体があるが、その『不知火』が海上に一列に綺麗に並んだ夜、兄は真夜中にそっと船出した。
兄の隣には、その年の冬にフラリと現れて以来、アカリたちの街に住み着いていた若い女の姿があった。
そして、戻ってきたのは女一人だけだった。
アカリはまだ幼かったが、その女のことだけはよく覚えていた。
この世のものとは思えないくらい、美しい女だった。
海の女神は嫉妬深い――
だから、女を船に乗せるのは厳禁――
昔堅気で頑固者で、おまけに迷信深かった兄が、亡くなった夜だけは、なぜかその女を伴っていた。
魔性……街のだれかが噂したそんな言葉の意味も理解するには至らない年齢だったが、何となく、その女が兄をどこかへ連れて行ってしまったのではないかと、幼いアカリは疑っていた。
大きくなったら、兄の仇を討つためにその女を捜しに行く。
いつしかアカリは、そう心に決めていた。
そして、高校へ入学する前の春休みに、父の書斎を探る内に、ある「一人の女」に対する膨大な資料を見つけてしまった。
島貫 美華――
アカリがこれから訪ねようとしている女、その人だった。
※
「確か、この辺やと思うちょるんやけど……」
電車を乗り継ぎ、工場の立ち並ぶ小さな街へやってきたアカリは、手にしたメモ紙と、目の前にいくつも同じような姿で横たわっている貧しい長屋の群れを見比べて首をひねった。
メモに書かれている住所は確かにこの集落の一つを指していたが、アカリが想像していたあの魔性の女――が住む家のイメージからはあまりにかけ離れていた。
「ごめんくださーい」
長屋の前に立ち、声を張り上げる。
しかし、中に人の気配はない。玄関先には、錆付いた子供用の三輪車が置かれていた。
アカリはそのまま家の裏手へ回ってみた。
するとそこには、アカリに背を向けた形で小さな子どもが一人うずくまり、一生懸命何かをしている最中だった。
アカリはそっとその子どもの背後に近づき、手元を覗き込んだ。
「あっ!」
「わっ!」
アカリが声を上げるのと、子どもがビクッと飛び上がるのはほぼ同時だった。
「何しちょる! 危なかね」
アカリは子どもが手にしていたマッチ箱と火のついたマッチ棒を叩き落すと、それらが地面の雑草を焼く前に、急いでローファーの靴底でもみ消した。
「子どもがこんなもんで悪戯しよったらいかん。ほら、見てみんしゃい。火傷しちょるやないの」
アカリにグッと手を掴まれて、子どもは唖然とした顔でアカリを見つめて言った。
「……姉ちゃん、誰?」
尋ねられ、アカリは初めて我に返った。
「ああ、ごめんごめん。怪しい者じゃなか。姉ちゃんは、ちょっと人探しにここまで来たんよ。僕は、この家の子?」
子どもはコクリと頷くと、黙って後方の長屋を指差した。
「鍵無くして、入れないの」
「それはいかんね。お家の人、帰ってくるのは、何時くらい?」
「……わかんない」
子どもと一緒に、アカリもため息をつく。
「僕、名前は?」
「たかし」
そう言った声も、体つきも、線の細い痩せた子どもだった。