(7)
最後の酔客を追い出してから、マサは「スナック不知火」の電飾の看板の明かりを消しに店の外へ這い出してきた。
「ふあぁぁぁぁぁ」
すきっ歯が丸見えになるのも気にせずに大きな欠伸をもらす。夜は東の空から薄っすらと白み始めていた。
看板の明りのスイッチを切って顔を上げた時、長身の影が、店の階段の前にたたずんでいるのに気がついた。
「隆志っ!」
寝ぼけ眼をゴシゴシ擦ると、マサは隆志に飛びつくように駆け寄った。
「お前、心配してたんだぜ! 店にもずっと顔見せないでよ。オフクロさんがあんなことになっちまって……アカリさんもずっと、眠れないくらい心配してたんだぜ」
「……ごめん」
「いいよ、それより早く中に入れよ。アカリさんが待ってるぜ」
マサは逃がさないように隆志の肩をガッシリと掴んで、店への階段を降りるよう促した。言われるまま素直に、隆志はマサに従った。
「……隆志君」
店の扉を開けた途端に、誰もいない店内で片づけをしていたアカリは、カウンターを拭く手を止めて、戸口に佇む隆志を呆然と見つめた。
「……ずっと挨拶も出来なくて、ゴメン」
隆志は気恥ずかしそうにうなだれて呟いた。
「何言ってるのよ! こっちに来なさい。夕飯は食べたの? マサ、残り物あったわよね。すぐ用意して」
「任せとけ!」
マサは隆志の後ろで嬉しそうに飛び上がると、アカリのいう通り、隆志の夕食を用意すべくカウンターの中へ滑り込んだ。
「こっちいらっしゃい、とにかく座って」
アカリは隆志の側まで来て手を引くと、強引にカウンターの席に座らせた。
「少し痩せたんじゃないの? 顔色も良くないみたいだけど、ちゃんと眠れてる?」
アカリの細い手に両頬を挟まれて、隆志は少し赤面して、不器用に顔の前で手を振り、アカリから逃れた。
「……大丈夫だよ。心配かけて、悪かった」
その時、アカリと隆志の間に、マサが作ったばかりのタマゴかけご飯と味噌汁を滑り込ませた。
「こんなもんしか出来ないけどよ、食えよ。元気を出すには、食うのが一番」
マサのタマゴかけご飯は、つややかな黄身の色が立ち上る湯気の中で映えていた。飢えは感じていなかった筈だが、湯気に誘われるようにして、腹の虫がギューと鳴いた。
「ほら、食べなさい」
味噌汁の茶碗をアカリに押し出されて、隆志は遠慮がちに口をつけた。暖かい汁が喉を伝って、胃の腑を満たしていく。
「……うまい」
思わず呟いていた。物の味を感じるのは、随分と久しぶりな気がした。
「だろ? もっと食えよ」
マサに促されるまま、隆志は流し込むようにタマゴかけご飯にも口をつけた。
「……うまいよ、うまい」
温かい食事を頬張るうちに、冷え切っていた体が温まり、それにつれて、凍えて張り詰め固まってた心が雪解けをするようにほぐれていくのを感じた。
隆志は茶碗に顔を埋めながら、いつしかしゃっくり上げて泣いていた。
「……うまいよ。ほんと……うまい」
美華の好物だったタマゴかけご飯。
貧しい自分たち親子のご馳走で、何か特別なことがある日は、決まってこのメニューだった。
そんな隆志を、マサとアカリは静かに見守り、隆志が落ち着くまで泣かせてやった。
「……これから、どうするつもり?」
隆志が少し落ち着いたのを見計らって、アカリは静かに尋ねた。
「隆志君さえよかったら、この店で一緒に暮らさない?」
「そうだよ、楽しいぜ! 間借りしてる俺の隣の部屋、空いてるんだしよ」
マサがアカリの後に、すかさず言葉を重ねる。
隆志は静かに、首を横に振った。
「……ありがとう。アカリさんたちには、感謝してる。でも、俺、もう決めたんだ」
隆志はゆっくりと箸を置き、アカリたちに向き直り姿勢を正した。
「……母さんを、還してやりたいんだ。父さんのいる海に。不知火の海に」
「熊本へ行く気なの?」
アカリは驚いたように眉を上げた。隆志が静かに頷く。
「父や母はとっくに亡くなってるわよ。知ってる人は誰も……」
「でも、俺の故郷だから」
隆志は唇を噛みしめながら、それでも笑顔に似た表情で言った。
「知ってた?俺は不知火の海で、愛し合った二人の子どもなんだ。だから、不知火の海は、俺の故郷なんだ」
「美華さんの言葉なのね?」
隆志は無言で、「そうだ」と頷いた。
「……決心は固そうね」
アカリは少し寂しそうに微笑んだ。
「ナナちゃんたちには、言ったの?」
アカリとマサは、中学三年生で理穂子が家出した時この『不知火』で面倒を見て以来、理穂子のことをずっと「ナナちゃん」の名前で呼び続けていた。
「美華さんが亡くなってから毎日、智之さんこの店に来て、隆志君から連絡がないか気にしていたのよ。ナナちゃんを連れて来たことも何度かあったわ」
隆志の顔が曇る。
「……別れを、してあげなさい」
アカリの一言が、静かな店内の中にポトリと落ちた。
「あーあ、辛気臭ぇなぁ! 男に旅は付き物だろ!」
マサは愛用のスタジャンの袖口で乱暴に涙を拭うと、有線放送のスイッチをひねった。
途端に流れる音楽が、店内に染み渡って行く。
聞き覚えのあるメロディ。
『ジョニーへの伝言』――理穂子を待つ喫茶店の中で聞いたのと同じ曲だった。
「葬式代は、少しずつ返して行くから」
「バカ!」
アカリは隆志の頬を軽く叩く真似をすると、着物の袂から、綺麗に折られた一万円札を出した。
「アカリ姉さんを舐めるんじゃないよ。餞別、受け取りなさい。恥かかせるんじゃないよ」
「……でも」
「大人しく言うこと聞いとけって!アカリさん怒らせたら怖いぜぇ」
マサはそう言うと、カウンターの上に置かれた一万円札を隆志のズボンのポケットに無理やりねじ込んだ。
有線放送の切なげなメロディは、サビに向かって盛り上がりをみせる。
「……ありがとう」
隆志は二人に向かって、静かに頭を下げた。
※
明け方の川沿いの道を歩いて、住み慣れた長屋への道を一人歩く。
先ほど飛び出してきた道のりを逆に歩きながら、隆志は二度と通ることがないであろうこの道を、瞳に焼き付けた。
長屋の前まで行くと、智之がくれた愛用の自転車が静かに佇んで、隆志の帰りを待っていた。
そっと手を触れる。
冬の凍てついた空気を受けて、シン――とした冷たい金属の感触が、隆志の指先に触れた。
「……今まで、ありがとな」
さび付いた音を立てながらも、隆志の短い高校生活を支えてくれた相棒に、声に出して礼を言った。
玄関の鍵は自分が飛び出した時のまま開いていた。
靴を脱いでそっと上がりこむ。
旅の支度を終えたら、朝一番の始発でこの街を離れるつもりでいた。
居間に足を踏み入れたとき、隆志は思わずその場に立ち尽くした。
「……なんで、まだ居るんだよ」
そこには智之が一人、壁に背中を預けた格好で静かに寝息をたてていた。
「何で俺のことまで、待ってるんだよ」
中学生の頃、美華に一方的に捨てられた後の智之は、隆志が何を言おうとも毎日美華の帰りを寒空の下で待っていた。
今、愛用の眼鏡を外し、顔に疲労の色を浮かべながら眠る智之は、あの時美華を待っていた姿勢とまさに同じ姿で、隆志のことを待っていた。
隆志は智之の脇に崩れるように膝をつき、眠る智之に深々と頭を下げた。
「……ごめん、智之さん」
体の横に無防備に投げ出された手は、人を殴ることなど滅多にない、華奢な手だった。
手の甲の部分には、先ほど隆志を殴った時に、隆志の歯にあたって切れた傷口から血が滲んでいた。
「……こうでもしなきゃ、あんたは聞かないだろ……だって、あんたは、本当にバカみたいに優しいから、俺がいる限り、側にいようとするだろう?あんたの愛したあの女はもういないのに。だから、あんたを返してあげる。斎木の元へ、返してやるよ」
言いながら、智之と過ごした日々が、走馬灯のように隆志の脳裏を駆け抜けた。
智之を起こさないように声を殺しながら、隆志はこみ上げてくる嗚咽を押さえるのに必死だった。
「俺は、強くなんかないよ……優しい人が側にいてくれなきゃ、強くなんかなれないよ」
智之の手の甲に、隆志の流した涙が一粒落ちて、流れた。
※
「……パパ! パパ!」
呼ばれて、智之はハッとして目を覚ました。
気付けば夜はすっかり明けていて、目の前には蒼い顔をした理穂子が立っていた。
「……理穂子、お前、帰らなかったのか?」
「途中まで行って、心配で戻ってきたの」
理穂子は智之の脇に座り込むと、ワイシャツの襟首にすがりつくようにして言った。
「パパ、島貫君は?美華さんの遺骨がないのよ。島貫君、どこへ行ったの?」
理穂子の指差す方向を見て、智之は初めて事態に気がついた。
居間に置かれた遺影の前から、美華の遺骨をいれた箱がなくなっていた。
「……何てこと……出て行ったんだ」
「……そんな」
理穂子は口元を押さえ、信じられないというようにかぶりを振った。
「まだその辺にいるかもしれない。理穂子はここで待っていなさい。探してくる!」
「パパ!」
智之は側に放り出してあった上着を掴むと、すぐさま長屋を飛び出していった。
残された理穂子は、人の気配が消えた部屋の中に途方にくれたまま座り込んでいた。
その時、智之が先ほどまで座っていた足元に、小さな紙切れが二枚落ちているのに気がついた。
そっと、拾い上げてみる。
『アイススケートリンク入場券』――
理穂子の脳裏に、喫茶店で隆志とかわした会話が蘇った。
(クリスマス当日まで、プレゼントの内容は秘密だよ。でね、相手が一番欲しそうなもの、用意するの)
(ヒントくれよ。例えば、斎木の好きなものとか、最近のお気に入りとか。そっから、斎木が欲しそうな物、考えるからさ)
(私の最近のお気に入りはね、ずばり『ある愛の詩』だね。すごく、愛し合っている恋人同士が、彼女が白血病になったことで引き裂かれるの。最後に彼が、誰もいない思い出のスケートリンクで一人、彼女と過ごした戻らない日々を想うところが、すごく切ないけど、大好き)
今日は、約束のクリスマスの朝だった。
「……島貫君」
理穂子は自分のポケットから、完成したばかりの赤い毛糸の手袋を取り出した。その上に、大粒の涙が零れ落ちる。
「……助けて」
世の中の誰からも忘れ去られたような小さな長屋の中で、搾り出すように呟やかれた理穂子の小さな声は、夜明けの切れるように冷えた空気の中に、溶けて消えた。
それきり、この街で理穂子が隆志に出逢うことはなかった。
※
あの時 君がこぼした小さな声を
聞き逃さずに 手を差し伸べていたら
僕らの未来は 何か変わっていたのだろうか?
どんなに考えても 答えが出ないんだ
僕は欠けた魂の欠片を 探すことに夢中で
君は悲鳴を上げる魂を 押し殺すことに必死だったから……
~第5話「不知火」<完>~
【炎の中へ】第一部 終了