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炎の中へ  作者: 春日彩良
第5話【不知火(しらぬい)】
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(6)

 何の前触れもなく、何の感慨もなく、死は突然に気まぐれに訪れる。

 まるであの女の人生そのもののように、悪い冗談の続きでもあるかのように、呆気なく、あの女は逝った――

 死因は、一酸化炭素中毒。

 夜に食べようと、タマゴ粥を作っていた際、つい火をつけたまま寝入ってしまったのだろうと、警察に言われた。


「……慣れないことするから、バカ」


 猫の『たーちゃん』も、母の腕の中で仲良く寄り添うように死んでいた。

智之さんやアカリさんが何度も心配して電話をかけてきた。

 葬式費用はアカリさんに世話になることにしたが、智之さんからの電話は避け続けていた。


 高校へは、退学届けを出した。



     ※



 身の回りの必要なものを片付けてから、隆志は職員室へ挨拶に言った。


「……島貫、本当に考え直すことはないのか? 今回のことは、本当に何といったらいいか分からないが、お前ほど成績も優秀なヤツなら、奨学金という手もある。何も、辞めなくても……」

「いえ、誰にも迷惑をかけるわけにはいきませんから。自分の生活は、自分で面倒見ます」

「……そうか。残念だ。しっかりやれよ」


 隆志は比較的隆志に目をかけていた担任教師に深々と頭を下げると、職員室を後にした。



 荷物と言っても、クラブ活動をやっていたわけでもないので、小さな手提げ袋にすべて収まってしまうような荷物しかなかった。

 隆志は校庭を横切り、自転車置き場へ向かおうとした。


「おーい!島貫っ!」


 その時、上の方から隆志を呼ぶ声がした。隆志が振り返ると、隆志たちの教室がある校舎の三階の窓から、伊藤健吾が顔を真っ赤にしながら、隆志に向かって叫んでいた。


「お前なんか、ずっと昔から大っ嫌いだったんだ! 俺よりビンボーなくせに、俺より勉強できて、顔がよくて、女にモテて、足が長くて、生意気なんだよ! 大っ嫌いだったんだよぅ……父ちゃんなんか、母ちゃんがいるのに、お前の母ちゃんのケツばっか追っかけててよぅ、母ちゃんが可哀相で、悔しくて、大嫌いだったんだ!」

「あんた、さっきから何言ってんのよ!」


 その時、健吾の横から萩原圭子が顔を出して、健吾の横面を小気味良く引っぱたいた。


「伝えたいことは、そんなことじゃないでしょ」


 圭子にたしなめられ、健吾は唇を尖らせながら、制服のズボンのポケットを漁った。


「島貫っ!受け取れっ!」


 健吾は一際大きな声で叫ぶと、校舎の三階から、バラバラと小さな何かを大量にばら撒いた。


「七十四戦、七十四勝、お前の勝ちだ!」


 健吾が投げたものは、大量のマッチ箱だった。

 軽い螺旋を描きながら、いくつものマッチ箱がクルクル踊って校庭に落下してくる。


「勝ち逃げしやがって、バカヤロー!」


 健吾はそう言うと、制服の袖口で乱暴に目元を拭い、窓に背を向けた。


「まったく、あんたは素直じゃないんだから」


 圭子の叱責する声が聞こえてくる。

 隆志は散乱したマッチ箱の一つを拾い上げると、校舎を見上げた。


「……ありがとう」


 そのままその一つをポケットの中にねじ込んで、隆志は二年半通った高校を後にした。



     ※



 涙が出ない。

 暗い部屋の中で一人になり、遺影の女を見つめる。

 春の日差しの中で、華やかな笑顔を見せる女は、不謹慎なほどに美しく、幸せそうに見えた。

 元々留守がちだっただけに、美華のいない空間に違和感がない。そのうち、不意に酒の匂いをさせながら玄関の扉を開け「隆志ー、水ー」といいながら悪びれもせずに戻ってくるのではないか、そんな気がしてならない。



 ニャー――



 その時、勝手口の方から、猫の鳴き声が聞こえた。


「……餌の時間だ。忘れてた」


 隆志は立ち上がって、調理場に残っていた冷や飯を、割れた小皿に盛った。

 それを持ったまま勝手口に向かう。

 そこには、誰もいなかった。


「ああ、そっか」


 隆志は手にした小皿を地面に置くと、額に手を当ててうずくまった。


「……はは、バカみてぇ、俺」


 乾いた笑いをこぼしてふと窓の外に目をやると、長屋の裏手に広がる竹林の中を、小さな炎が揺れながら浮遊しているのが目に入った。


「……人魂?」


 窓辺に駆け寄り、林の中に目を凝らす。

 それは、確かに人魂のようだった。青白い光を放ちながら、頼りなげにユラユラと迷い子のように浮遊している。


「……母さん? やっぱり、成仏できないの? 煩悩が多すぎるから、天国に断られたんじゃないの。相変わらずだな」


 人魂は隆志の言葉に反応するかのように、二三回小さく明滅する。

 その時、玄関の扉を激しく叩く音がした。途端に、人魂は消えた。


「隆志君! いるんだろ? 開けてくれ!」


 無視しようと思っていた隆志だが、玄関を叩く音はますます激しくなる。仕方なく、隆志は扉を開けに行った。


「ああ、やっと会えた」


 隆志の顔をみるなり、智之は心からホッとしたような顔をして息をついた。その後ろにおずおずと控えていた小さな影を見た時、隆志は思わず声を上げた。


「……斎木」

「……パパに頼んで、一緒に連れてきてもらったの」


 隆志は顔を背けると、そのまま理穂子たち親子に背を向けて、部屋の奥へ向かった。智之が追いかけるように後から続く。


「心配したんだよ! ずっと連絡も取れないで。さっき、高校に行ったんだ。驚いたよ、何で退学なんか……」」


 智之は余程気がかりだったのか、隆志の顔を見るなり、堰を切ったように矢継ぎ早に質問を浴びせた。

 それは質問というよりも、水くさい隆志に対する、もどかしい怒りにも似た気持ちであった。


「あんたには、関係ないだろ」


 隆志は背を向けたまま、冷たく吐き捨てた。

 明かりも付けていない部屋の中で、美華の遺影の周囲だけが、近くの国道を通る車から漏れてくる明かりで、薄ぼんやりとその輪郭を浮き上がらせていた。


「……あの女はもういないんだから、あんたが俺に関わる理由もなくなっただろ」

「何バカなことを言ってるんだよ! 君は君だろ。僕が君を心配するのは、美華のためだけじゃ……」

「勘違いするなよっ!」


 隆志は振り返ると同時に薄いベニアの壁を殴りつけて怒鳴った。理穂子の体が反射的にビクッと震える。


「あんたは優しいよ。哀れな親子に施しをくれる。でも、所詮は他人だよ。あんたは知らないんだ。あの女は、あんたが夢見てるような哀しくてか弱い女なんかじゃなかった。狡猾で、根っからの男好きで、でも、間違えなく、俺の母親だったんだ。あんたらなんかには、分からない。でも、それで結構だ! 所詮、インバイの息子はインバイ……」



 バシッ――



 予想もしなかった強い殴打が、隆志の頬を襲った。

 懇親の力を込めた、智之の一撃に、隆志の身体はちゃぶ台の上に倒れこむような形でふき飛ばされた。


「自分の大切な人に、そんな言葉使うもんじゃない」


 智之は静かだが、凛とした強さと厳しさを込めた口調で言った。


「あの人は、君が使った言葉のような人じゃなかったよ。あの人は、とても不器用なやり方で、たった一人の人を愛していたんだ。隆志君、君のお父さんをね。あの人にとっては、彼でなければ、他の男はみんな同じだったんだ」


 張られた頬がジンジンして、熱を持っている。唇を噛みしめていないと、意志に反して涙がこぼれてしまいそうになる。

 そんな隆志の気持ちを察してか、理穂子が大きな瞳を潤ませながら口を開いた。


「……島貫君、何でも私に出来ることがあったら言って。パパと話たんだよ。私たち、島貫君の力になりたいって……」


 隆志は真っ直ぐな理穂子の目を見て、不意に唇の端から乾いた笑いがこぼれた。一旦こぼれた笑いは止められず、次第に大きくなって、仕舞いには隆志は腹を抱えて笑い出した。


「……島貫君?」


 智之と理穂子は何か恐ろしいものを見るかのような怪訝な顔で、隆志を見守っている。

 隆志は二人の視線を受けて、美華に良く似たギラギラ光る目を上げて理穂子を見やった。


「あんたら親子には叶わないよ。街中の侮蔑の的の親子相手にも、見上げた奉仕精神だな」


 隆志は切れた唇の端を拭って立ち上がると、そのまま強い力で理穂子の腕を掴んだ。


「だったら、ヤラせろよ!何でもしてくれるんだろっ!」

「いやっ!」

「やめろっ!」


 智之が二人の間に割って入ったのと、理穂子が反射的に隆志の腕を振り払ったのは、ほぼ同時だった。

 咄嗟に手が出た智之に再び殴り飛ばされ、隆志は先ほど倒したちゃぶ台の上へ、したたか胸を打ちつけて倒れた。

理穂子は荒い息のまま、まるで隆志が何か別の恐ろしい生き物に変わってしまったかのような目で、智之の肩越しに、倒れこむ隆志を見つめている。


「……ははっ!初めて、答えが出たじゃないか」


 血の混じった唾液がたれて、畳を汚す。


「偽善なんだよ。あんたらと俺らとでは、最初から、住む世界が違う」


 理穂子の瞳から、大粒の涙がこぼれて落ちる。

 隆志は壁に手をついて立ち上がると、理穂子たち親子に背を向けて、そのまま叩きつけるように玄関の扉を開けて出て行った。




「……パパ」


 隆志が出て行った空間の中で、理穂子はこの恐ろしい状況から救いを求めるように、智之の袖にしがみついた。

 智之はそんな理穂子の手を軽く握り、言い聞かせるように呟いた。


「大丈夫だよ。僕は、信じてここで隆志君を待つから」

「私も……」

「いや、理穂子はもう帰りなさい。ママが心配する。大丈夫だから、隆志君と話が出来て落ち着いたら、必ずお前をまた呼んであげるから」


 理穂子は智之の袖口を握る手に力を込めた。


「約束よ、パパ」

「ああ、大丈夫。安心して、待っていなさい」


 智之は理穂子を抱き寄せて、微かに震える肩を優しくさすってやった。




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