(5)
どういう取り決めがなされたのか分からない。
色々な人が入れ代わり立ち代りおじさんたちの家に来て、色々なことを話し合っては出て行った。
おばさんは泣く時間が多くなり、おじさんは夕飯の後にたしなむお酒の量が増えた。
そして、何日かたったある日、あの女――母が現れた。
その日はもう、母は泣きわめいても取り乱してもいなかった。
最初に現れた日と同じワンピースに身を包み、麦藁帽子の影から覗く、薄化粧を施した顔は、子ども心にも花のように美しかった。
玄関先で僕を連れて母を出迎えたおばさんは、俯きながら小さな声で母に詫びた。
「……堪忍してね、美華さん、堪忍して……」
母は何も言わず、僕の頭の上に手を置いた。
「湿っぽいのは、嫌いなの。性に合わないじゃない?」
しゃがみこみ、僕と同じ高さに目線を合わせて、母は言った。
「たーちゃんはおバカさんだから、すぐに美華ちゃんのことなんか、忘れちゃうね」
「美華さん……」
おばさんの言葉を遮って、母は勢いよく立ち上がった。
「バイバイ、たーちゃん」
艶やかな笑顔を浮かべて、母はクルリと僕に背を向けた。
「……たーたん」
ジャリッ――
足元の砂を踏んで、僕は一歩を踏み出した。
母の背中が止まる。
「……たーたん」
僕はもう一度、今度は先ほどよりも大きな声で言った。
「自分の名前しか言えない、おバカさん。でも、許してあげる。美華ちゃんのことも全部忘れたら、許してあげる」
母は振り向かずに言った。微かに肩が震えていた。
「たーたんっ!!」
歩き出す母の背中に向かって、殆ど叫ぶように僕は言った。
「どうしたの?たーちゃん?」
おばさんが心配そうに僕の肩を掴む。僕はその手を振り払い、薄情で美しく哀しい女の背中を追いかけた。
「たーたん!たーたん!」
泣き叫びながら必死で追いかける。夕日の中へ消えていく背中との距離は中々縮まらない。
「あっ!」
僕は小石に躓いて、派手に転んだ。痛みと生まれて初めて覚えた訳の分からない悲しみに、喉が張り裂けそうなくらい泣き叫んだ。
「たーたん、たーたん、たーたん!!」
たーたん――かあちゃん
女の足が止まる。振り返った女は、大きな目を見開いて、僕を見つめた。
「……たーちゃん、あんた、『かあちゃん』って、言ってるの?」
女の美しい顔が、見る見るうちに涙でグシャグシャに歪んだ。
女は足がもつれ、履いていた白いサンダルが脱げて転がるのも構わずに、転んだ姿勢のまま、わあわあ泣きじゃくっている僕の元へ駆け寄ってくると、殆ど倒れこむようにして僕の上に覆いかぶさり、力の限り抱きしめた。
「……いや、いやよ。離れられるわけない。たーちゃん、私のたーちゃん。誰にも渡せない。渡せない……」
おばさんは遠くから、そんな僕ら親子二人の姿を、哀しそうに見つめていた。
※
「隆志?……起きてる?」
遠慮がちに、襖の向こうから声をかける美華に隆志は素っ気無く答えた。
「起きてるよ」
「……入っても、いい?」
「勝手にすれば」
襖を開けて、美華が入ってきた。酔いは覚めているようで、スウェットの部屋着の上下を着て化粧を落とした顔は、子どものように幼く頼りなげに見えた。
「期末テスト終わったのに、勉強してるの?偉いね」
「休み明けたら、模試があるから」
隆志は問題集のページをめくる手を休めずに言った。
「……何やってるの?」
「古典」
美華は隆志の横に顔を寄せ、隆志が目で追うページを覗き込んだ。
「この歌、何だか素敵ね」
美華が細い指で、ページの一部を示した。
「白玉か なにぞと人の 問いしとき 露と答えて 消えなましものを」
ぎこちなく、美華が読み上げる。
「どういう意味?」
「『あれは真珠ですか?何ですか?』とあの人が聞いた時に『露です』と答えて、自分も露のように消えてしまえたらよかったのに…って意味。好きな女をさらって逃げる途中に、女を鬼に喰われちまった男の嘆きの歌だよ。「芥川」っていう古典に載ってる」
「……ふーん、ロマンチックね」
「どうかな」
隆志は軽く鼻で笑うと、また鉛筆を動かし始めた。
「……私も、消えてしまえば良かったって、何度も思ったわ」
「え?」
美華は、隆志の机に背中を預けながら、手にしていたマグカップの中でグルグル回るコーヒーの漆黒の中に目を落としながら言った。
「あの人のこと、話したことなかったわね」
「……あの人って、父さん?」
隆志の問いに、美華は静かに頷いた。
「不思議な光景だった。不知火の出る夜に、たった二人で船出して……海の上で揺れる青い炎を、二人で見たわ。その炎を見ながら、愛し合ったの」
美華は隆志の髪を撫でながら呟いた。
「……あんたは、炎を見ながら愛し合って、生まれた子なの」
マグカップを隆志の机の脇に置くと、美華は思い出すように目を細めた。
「……どうして、父さんだけ、帰って来なかった?」
隆志はアカリに聞かされて以来、ずっと心に引っかかって離れなかったことを思い切って聞いてみた。
美華は静かに口を開いた。
「この世のものとは思えないような、青い炎に見惚れて、指輪を落としたの。あの人に、その日もらったばかりの指輪よ。不知火を初めて見たとき、私はあの人に、『あれは何?』って聞いたの。あの人は答えたわ。あれは、魂だって。死んだ人間の強い想いが炎になって、海の上で燃えているんだって。そして、こうも言ったわ。この指輪が俺の魂だって。あの人は、私に魂をくれたの」
「父さんは、落とした指輪を取りに行って死んだの?」
「……止められなかった」
美華は俯き、手の中のコーヒーはもう既に熱を失っていた。
「ごめんね、隆志」
「何だよ、急に」
「あんたは、私とあの人の、魂だったの」
辺りはひっそりと静かで、隆志たち二人を、暗い夜の底に沈めていた。
次の朝、隆志が起きだすと、珍しく美華が先に起きていた。
居間には魚の焦げ付いた匂いと、かすかに味噌汁の香りが漂っていた。
「どういう風の吹き回しだよ?母さんが朝食作るなんて」
居間を覗いた隆志は、仰天して尋ねた。美華は少し恥ずかしそうに頬を染めて、しかし嬉しそうに隆志を振り返っていった。
「私だって、やるときはやるのよ」
「良くないことの前触れじゃないだろうな?」
「失礼ね!」
味噌汁の味を見ながら、美華は舌を出した。
「……ちょっと風邪っぽいから、今日はお店休もうと思って。一日家にいるわ」
「飲みすぎだろ?」
「違うわよ、本当に失礼な子ね」
美華の作った、決して美味いとは言えない朝食をかっ込んでから、隆志は鞄を肩から斜めがけにして立ち上がった。
猫の『たーちゃん』が喉を鳴らしながら、隆志の足元に身体を擦り付ける。隆志は食べ終えた鮭の骨を『たーちゃん』に投げてやった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
美華は不思議なほど穏やかな表情で戸口に立って隆志を見送っていた。
※
その日、隆志が帰宅したのは夕方の六時を過ぎたあたりだった。
辺りはもう闇に包まれていたが、長屋の明かりはついていなかった。
「風邪気味だって言ってたのに、出かけたのかな?」
いつもなら家の中からうるさいほどに聞こえてくる猫の「たーちゃん」の鳴き声も聞こえてこない。
首をかしげながら、隆志は家のドアの鍵を回した。
「うっ!」
その時、隆志は強烈に鼻を襲う臭気に気がついた。
制服の袖口で鼻と口を押さえ、土足のまま急いで部屋の窓を開けに走る。空気の悪さに吐き気がして、窓を開けながら、隆志は何度も嘔吐した。
調理場のコンロの上で、吹き零れた鍋をみつけて、隆志は急いでガスの元栓を閉めた。
「か、母さん!」
暗闇の中、美華の姿を探す。
「母さん、返事しろ!」
居間の炬燵の所で何かにつまずいて、派手に転倒する。
「痛ぇ……」
振り向いた瞬間、隆志は言葉を失った。
『たーちゃん』を腕に抱えたまま、美華は穏やかな笑みを浮かべ、そのまま眠るように息絶えていた。
僕は母の匂いが嫌いだ。
安物の甘い香水の匂い。
その匂いを嗅ぐと、母よりも女を生きたあの人の、全てを許してしまいそうになるから……