(4)
長屋の部屋の中に置かれた、場違いなほどに大きく立派な作りの柱時計が、重厚な音色で午前0時を告げた。
ウトウトしかけていた隆志は、その音で目を覚ますと同時に、外から聞こえてきた、耳慣れた女の嬌声に立ち上がった。
「たっだいまー、たっかしー」
ガラッと玄関の扉が開いたと同時に、見知らぬ男に肩を回された美華が、その男もろとも玄関の踊り場に倒れこんだ。
三日ぶりの帰還だった。
「隆志、みっずー、お水持ってきてよぅ」
すっかり酩酊している美華は、回らぬ舌で水を要求しながら、隆志を手招きする。
「何だ?このガキ」
男は、家の中に予想外の邪魔者がいたことに腹を立てて、隆志を睨みつける。
「ふっふー、あたしの可愛い隆志君よ。ねー、隆志」
美華は上機嫌で、玄関先に現れた隆志の頬をピシャピシャと軽く叩いた。
「息子がいたなんて、聞いてねぇぞ」
「あったりまえじゃん、言ってないもん」
美華は何が可笑しいのか、腹をよじって笑い出す。男はあからさまに不機嫌な顔になって、隆志に向かって言った。
「おう、ガキ。しょうがねぇな、いいとこ邪魔すんなよ。朝まで外出てろよ」
「……出て行くのは、お前の方だ」
「んあ?」
暗闇で低く呟く隆志の声を聞き取れなかった男は、挑発的に隆志を見上げた。
その瞬間――男は有無を言わさぬ強い力で、胸倉を掴まれていた。
「出て行け!今すぐ、この家から出て行けっ!!」
隆志は男の体をそのまま玄関のドアに激しくぶつけると、ドアを開けて、勢いをつけて男を外へと突き飛ばした。
ピシャン!!
横開きのドアが外れるくらいの激しさで男を閉め出す。
突き飛ばされた男は、外で尻もちをついた姿勢のまま、呆気に取られていたが、やがて正気を取り戻すと、様々な罵声を浴びせながらドアを蹴り上げ、やがてそれにも飽きると、どこかへ消えて行った。
「なーに?随分、機嫌悪いのね」
隆志と男の様子を黙って見ていた美華が、苦笑しながら隆志を見上げた。
「……智之さんに、何をした?」
隆志は拳を握り締めたまま呟く。
「あんたが家を出てった三日前の夜、帰り道で智之さんに会ったよ。智之さん、泣いてた。あんたが何か言ったんだろ?」
「覚えてないわね」
美華は冷たい声で答える。
「とぼけるなよ!それだけじゃない。アカリさんの店にも乗り込んで、恥知らずなことしたらしいじゃないか!何でだよ、何でそんな真似……」
「あんたを奪おうとするからよっ!」
美華はふらつく足取りで立ち上がると、隆志のシャツの胸を掴んで叫んだ。
「みんな、みんな! 善人ぶって、あんたを連れて行こうとするからよ! 私のたった一つのあんたを、取り上げようとするからよ!」
美華の吐く息からは、甘い酒の香りがした。隆志は胸にすがる美華を突き飛ばして、怒鳴り返した。
「勝手なことばかり言うなよ! 今まで一度も、自分の息子を気にかけたことなんかなかったくせに」
その時「ニャー」と、か弱い泣き声を上げて、美華の拾ってきた猫の『たーちゃん』が、いつもと様子の違う飼い主の雰囲気におびえながら、狭い廊下の向こうから現れた。
隆志は『たーちゃん』を半ば強引に抱き上げると、美華の前に突きつけた。
「見ろよ! こいつに三日間、エサやってたのは誰だと思ってるんだよ? 猫だって、エサやらなきゃ死んじまうんだぜ。そんなことも分からないの? たまに帰ってきて、気まぐれな愛情を注ぐだけのあんたに、こいつを飼う資格なんかない!」
猫の『たーちゃん』は隆志に片手でつかまれ、苦しげに「ニャー」と声を上げる。
「俺だって、同じだ」
『たーちゃん』は、とうとう堪らず、隆志の腕を引っかいて、廊下を逆戻りして部屋の奥へ走って消えた。手の甲の引っかき傷には、薄っすらと血が滲む。
「……俺は、あんたの猫じゃない。あんたの気まぐれで、飢えて死ぬのはまっぴらだ」
「何、言ってるの?隆志……」
美華が気まずさを隠すように、半笑いの表情を浮かべながら、隆志の血の滲んだ手を包もうと手を伸ばす。その手を、隆志はピシャリと撥ねた。
「あんたは『女』であって、『母親』じゃないよ。息子のことなんか、何一つ分ってない。あんたは、俺が初めて覚えた言葉さえ、知らなかったじゃないか!」
堪えていたものが噴出し、もう止められなくなっていた。
隆志は美華に背を向け、奥の部屋に入ると、後ろ手に部屋の襖を乱暴に閉めた。
襖に背を預け、ズルズルと座り込む。
短く切りそろえた髪を掻きむしりながら、隆志は闇の中で一人、持て余しがちな細く長い足の間に顔をうずめた。
※
僕は、言葉の遅い子どもだったらしい……
預けられていた無認可の保育所の職員は、母親とのコミュニケーションが少ないために、僕がなかなか言葉を覚えられないのだと、何度となく口すっぱく母に忠告したらしい。
しかし、そんな保育士たちの言うことを、素直に聞く母であるはずもなく、僕は二歳を過ぎても、一向に言葉を覚えぬままだった。
そんな僕が、唯一覚えて口に出来た言葉。
『たーたん』
母は自分が僕を呼ぶときに「たーちゃん」と呼びかけていたので、それを僕が口真似で覚えたと思ったらしい。
「まぁ、自分の名前が言えりゃ、苦労はしないわよ」
周囲が自分の子どもの知能の遅れを気にしているのに、あっけらかんと言い放つ、母はそう言う人だった。
はっきりとした記憶はない――
あれは酷く暑い夏の午後だった。
しかし、小さな保育所の裏林は燃えるような緑をたたえて、保育室の中まで心地よい涼風を運んでいた。
いつも最後まで残って母が迎えにくるのを待っていた僕は、その日も保育所の隅で、一人で遊んでいた。
僕の相手をするはずの保育士は、高齢のためか酷く疲れた様子で、その日は僕のお迎えに備えた連絡帳も開いたまま、窓から入るそよ風に誘われて、事務机の前に座ったままうたた寝をしていた。
その時不意に、少しだけ開いた窓から、誰かが僕を呼ぶ声がした。
「隆志ちゃん……隆志ちゃん……」
不思議に思って、持っていたおもちゃも放り出して、窓の側に駆け寄った。
そこには、見知らぬおじさんとおばさんが立っていた。
「……まあ」
間近で僕の顔を見たおばさんの方は、そう言って口を押さえると、突然ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「徹司にそっくりばい……」
今にも泣き崩れそうなおばさんの肩を支えながら、おじさんは僕に向かって手を伸ばしてきた。
「はじめまして。君のじいちゃんとばあちゃんばい。これ、隆志ちゃんのために買うてきたとよ」
そう言うと、おじさんは僕に、ピカピカの新しい消防車のミニカーを手渡した。今まで見たこともないようなカッコイイおもちゃに、僕はすぐに夢中になった。
しばらく好き勝手に遊ぶ僕を眺めているだけだったおじさんとおばさんだったが、うたた寝していた保育士が軽く身じろぎをすると、おばさんの方がおじさんの袖を引いた。
「……あんた」
「わあっとるばい」
おじさんは小さく頷くと、突然僕を抱き上げた。
「いい子やね、隆志ちゃん。一緒に行かんね。じいちゃんらと一緒に暮らそう」
そう言うなり、おじさんは僕を抱えたまま走り出した。おばさんも蒼い顔をして後に続く。
何がなんだか分からない僕は、泣くことさえもしなかった。
ただ、このおじさんたちが、悪い人には見えなかった。
車に乗って、船に乗って、見知らぬ海辺の街につれてこられた。泣きはしない僕だったが、何度もおじさんやおばさんの袖を引っ張っては「たーたん、たーたん」と繰り返した。
それが、僕が話せる唯一の言葉であったからだ。
「たーちゃん、わあってるばい。あんたは、徹司の息子、たーちゃん」
その度に、おばさんは涙混じりに僕を見つめながら、チーズでできたお菓子やキャラメルの欠片を口の中に放り込んでくれた。
その海辺の街にどれくらい居ただろうか。
狭い保育所の中で少ないおもちゃを取り合いをすることも、お腹をすかせて泣くこともない。
様々なおもちゃは全部独り占めだし、おばさんは優しく毎日おいしいご飯やお菓子をお腹いっぱい食べさせてくれた。
一週間もしないうちに、ガリガリにやせていた僕の頬は、すこし子どもらしくふっくらしてきた。
綺麗な洋服も着せてもらい、夕方になったらおばさんと一緒に手をつないで買い物に出かけた。
そんなある日、いつものようにおばさんと買い物へ行ったその帰り道、家の前に制服を着た警官が二人、僕らを待っていた。
「……あっ」
おばさんが短い叫び声をあげる。
二人の警官の間から顔を出したのは、花柄の艶やかなデザインのワンピースに麦藁帽子をかぶった、少女のような姿の美しい女だった。
「たーちゃんっ!!」
女は手を繋がれた僕を見つけるなり、ものすごい形相で僕らの元に駆け寄ってきた。
「やっと見つけたわ! ひどいっ、ひどすぎるわっ! 返して、私のたーちゃんを返してよっ!」
女は泣きながら、おばさんに向かってめちゃくちゃに殴りかかった。おばさんはボコボコに殴られながらも、痛いほど強い力で僕の手を握り、決して僕を放そうとはしなかった。
「徹司の忘れ形見ばい、堪忍して……堪忍して……大切に育てよるよ、大切に育てよる……」
「何の騒ぎか!」
その時、漁から帰ってきたおじさんが、騒ぎを聞きつけて飛んできた。
「やめんね!離れんかっ!」
おじさんは、半狂乱になっておばさんを殴り続ける若い女を力ずくで引き離し、突き飛ばした。
「返してよっ!泥棒!」
女は顔をくしゃくしゃにして泣き喚いた。おじさんは冷たい目で女を見下ろして言った。
「うちらのやったことは、確かにようないことかもしれん。けんどな、美華さん。悪いけど、調べさせてもろうたんよ。あんたに、子どもを育てるんは無理ばい。うちらやったら、隆志を幸せに育ててやれる」
「勝手なこと言わないでよ!返せ、返せ、鬼!」
女は近くにあった小石を拾うと、それを掴んでおじさんに殴りかかった。
側にいた警官二人が慌てて止めに入る。
「放して、放してよっ! たーちゃん、たーちゃん!」
「裁判でも何でもしたらええ。隆志は、あんたには返さん」
警官二人に羽交い絞めにされて、女は髪を振り乱して泣き叫びながら連れて行かれた。
最後まで必死に僕の名を呼び続けていた。
夏の燃えるような赤い夕日の中へ、何度も振り返りながら消えていく女の後姿を見送りながら、僕の頭はぼんやりと、その女が母親であることを思い出していた。