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炎の中へ  作者: 春日彩良
第5話【不知火(しらぬい)】
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(3)

 智之は、木枯らし吹きすさぶ川沿いの道を歩いて、見慣れた長屋の集落へ足を踏み入れた。

 ほんの数ヶ月の間、美しく軽薄な恋人と、まだ幼さの残る恋人の息子と共に過ごした苦い思い出の長屋。

 それ以後も、もう愛しい女の心が戻りはしないことは百も承知でも、待たずにはいられなかった日々の、全てを見てきたこの貧しい集落。

 訪れるのは、三年ぶりだった。

 

 もう日は西の空に傾き、家々に明かりが灯り始めている。

 立て付けの悪い引き戸に背中を預けて、智之は暮れてゆく空を見上げた。帰路を急ぐ鳥の群れが流れて行く。


 パキッ――

 その時、足元の枯れ枝を踏む乾いた音が、やけに大きく智之の耳に響いた。

 智之が空を見上げるのを止め、音の方向へ視線をやると、そこには黒いコートに華奢な身体を包んだ、巻き髪の女が立っていた。


「……やあ、久しぶり」


 ぎこちなく片手をあげる智之に対して、女は大げさに鼻をならした後、冷笑を浮かべた。


「付け回すの、復活したってわけ?」

「君だけのためなら、来ないよ。約束したからね、もう君の側に寄らないって」

「じゃあ、何で今ここにいるわけ?」

「隆志君のためだよ」

「隆志のため?」


 女の顔色が変わった。眉間に皺を寄せ、憎憎しげに智之を見据える。


「隆志君は頭のいい子だ。君は知らないかもしれないけど。学校の成績だって、すごくいい」

「あの子は私をバカにしてるから、学校の成績なんて一度も見せられたことないわ。通知表も、模試も、一回も……」


 吐き捨てるように言う女に向かって、智之が厳しい口調で遮った。


「君が興味を示さないからだろ!」

「説教ならやめて!」


 女の頬が怒りで紅潮する。


「『母親失格』『お前みたいな女に母親は務まらない』みんなそう言って、勝手に私からあの子を取り上げていくのよ!淫売女、娼婦の子、勝手な名前で私たちを呼びながら、優しさを気取った優越感で、私たちを引き裂いてくのよ」

「誰もそんなこと言ってない。僕は、ただ、君や隆志君を助けたいんだ。力になりたいんだ!」


 女の細い肩を掴みながら、智之は叫んだ。


「誰の入れ知恵?」


 女は薄ら笑いを浮かべながら、必死の形相の智之を見上げる。


「知ってるのよ。隆志もあんたも、あの女のところに入り浸ってるのをね。性懲りもなく、また私からあの子を奪う気ね」


 女は言葉に詰まる智之をあざ笑った。


「助けるが聞いて呆れるわね。自分の妻も娘も捨てて、愛人に走った男が。そう言えば、奥さん、再婚したそうじゃない。相手は羽振りが良かった頃のあなたと、対を張るくらいのお金持ちだそうね。もうあなたの手は必要としてないのね。生憎だけど、ウチも求めてないわ。差し伸べるべき手の行方を、手近なところで間に合わせるのはやめて。良心の痛みを、私たちで代用するのはやめて!」


 女の肩を掴んでいた智之の手が、ダラリと力を失って垂れ下がる。


「……何を言っても、信じてもらえないかもしれないけど」


 微かに肩を震わせて、消え入るような声で智之は呟く。


「妻や理穂子に僕がしたことは、一生かかっても償えることじゃない。でも、後悔は出来ないんだ。だって、僕は、もう一度あの日に戻れるとしても、きっと同じ道を選ぶから」


「そんなに私と寝たかった?」


 女の好戦的な物言いにも、智之は静かに首を横に振って言った。


「……愛していたんだ」

「身体をね」

「……違う。心だよ。美華、君の淋しい心を、愛していたんだ」

「笑わせるわね」

 

 女は新たな枯れ枝を踏む乾いた音を響かせながら、智之の脇を通り過ぎた。巻き髪から、甘くけだるい香りが漂い、智之の鼻腔をかすめた。


「隆志君が幼い頃、連れ去られそうになったことがあったと、いつか話してくれたことがあったね」


 智之は女を振り返らずに続けた。


「……その時、君の心が本当はずっと長いこと、悲鳴を上げてきたのが分かった」


 女は引き戸の前で立ち止まった。


「僕には……分かったんだ」



「……バカな男」


 女は一言呟くと、ピシャリと音をたてて引き戸を閉めた。






 隆志はアカギレだらけの手で自転車のハンドルを握り、ボロボロの赤い手ぬぐいを巻いた首を亀のように縮めて、川沿いの道を飛ばしていた。

 すっかり日が落ちて、寒さが肌を突き刺す。

 その時、不意に目の前に、真正面から駆けてきたであろう長身の影が立ちふさがり、隆志の自転車と正面からぶつかってしまった。

 隆志の自転車はライトが壊れて無灯火だったため、目の前にその人影が現れるまで気付かなかった。

 弾き飛ばされた人影が前方に転がり、隆志もバランスを崩して自転車ごと横倒しになる。


「……痛ってぇ!」


 倒れた自転車の横で思い切りぶつけた腿を擦りながら、隆志を身体を起こした。前方で同じように転がっている人影に目を凝らした隆志は、思わず驚きの声を上げた。


「智之さん!」


 男は隆志から顔を背け、暗闇の中で着ていたコートの襟の中に顔をうずめ、咄嗟に隆志から顔が見えないようにした。


「悪い!大丈夫か?」


 隆志は自転車をそっちのけで、倒れている智之に駆け寄った。


「こんな所で何やってるの?」

「……ちょっと、ね。用事があって」


 智之は鼻をすすり上げながら、くぐもった声でそう言った。智之の様子がおかしいことに気がついた隆志は、顔を背ける智之の襟首を掴んで、自分の顔の前に引き寄せた。

 間近で見た智之の顔は、涙で濡れていた。


「……何か、あったの?」


 智之は少し気恥ずかしそうに濡れた頬を拭うと、再び隆志から視線を外し、乾いた笑いをこぼした。


「何でも、ないよ。自転車、ライト壊れてるんだね。直さないと、危ないね」

「そんなことどうでもいいよ!この道……俺の家に行ってたの?母さんに何か言われた?」


 智之は小さく首を横に振った。


「この前、理穂子に会っただろう?いろいろなこと、話せたかい?」

「え?……うん、まぁ」


 智之は瞳を涙に濡らしながらも、いつものふわりとした笑みを浮かべていった。


「理穂子が残念がっていたよ。夕食に、君もくればよかったのにって。僕も君と三人で食事がしたかった」

「……俺は、いいんだってば」

「君は、案外照れ屋さんだからな」

「……ほっとけよ」


 唇を尖らせる隆志を見て、智之は優しく笑った。


「手を出して」


 智之が突然、皮の手袋を脱ぎ、隆志の前に自分の手をかざして見せた。


「重ねて」

「え?」

「いいから」


 怪訝な顔をする隆志を促して、智之は自分の右手に隆志の右手を重ねさせた。


「……大きくなったんだね。男の子は、ほんの何年かで大きくなるんだね。見てごらん。僕よりも、今は君の手の方が大きいよ」


 そう言うと、智之は改めて笑顔を作ろうとしたが、上手くはいかなかった。

 口元に手をあて、泣き笑いのような表情になりながら、必死に新たに溢れてくる涙を堪えようと唇を噛みしめた。


「智之さん、やっぱり何かあったんだろ?そうなんだろ?」


 襟首を掴んだまま詰め寄る隆志の肩を、智之はそのままガバッと抱き寄せた。


「……僕は、君の父親にはなれないよ。でも、君たち親子を想うことだけは、許してほしい。自己満足だと言われても、それだけは、許してほしいんだ」

「……智之さん?」


 隆志から智之の表情は見えない。隆志は智之の震える肩に恐る恐る手をかけた。


「……ただ、想うことだけは、許してほしい」


 隆志は大の大人が泣く姿を初めて見た。

 

 冬の凍てつく川沿いの道で、隆志は静かに涙を流す智之をぎこちなく支えていた。




     ※



 スナック『不知火』の常連客の一人、季節労働者の通称「源さん」は、同じく出稼ぎ仲間の後輩「信さん」と連れ立って、いつものように仕事帰りに『不知火』で一杯引っ掛けようとやってきた。


「まったくさぁ、あんなひどい現場見たことないよ。あのクソ親方……」


 思う様、二人で最近になって東京から送られてきた若い現場監督の悪口を言い合いながら歩いていると、店の前に黒いコートに身を包んだ女が立っているのが目に入った。


「お、おい!源さん、見ろよ」


 信さんは、隣にいる源さんを肘で突くと、小声で囁いた。


「……すっげぇ、いい女だなぁ」


 信さんはポカンと口を開け、うっとりと女を眺めた。


「バカッ!」

「痛ッ!」


 源さんは魂を奪われたように女を凝視する信さんの頭を、思い切り引っぱたいた。


「いい女で当たり前だ!知らないのか?ありゃ、この街で一番の有名な娼婦だよ」

「娼婦?……何だ、玄人か。どうりで、並外れていい女なわけだぁ。あぁ、俺もいっぺん、お手合わせ願いてぇ」


 よだれを垂らさんばかりの信さんに向かって、源さんは先ほどよりも強烈な一撃をお見舞いした。


「痛ぇよ!!さっきから何なんだよ、源さん!」


 頭を押さえて抗議する信さんに、源さんはピシャリと言った。


「ありゃ、隆志の母親だ」


 地下へ続く店の階段の前に立ち尽くす女は、モジモジと自分の前を通って店に入ろうとする二人の客を、甘い声で呼び止めた。


「お兄さんたち、この店の常連さん?」


 二人の中で、年配の男の方が振り返って頷いた。


「……そうだが、あんたもこの店に用かい?」


 女は薄く微笑むと、ヒールの踵を鳴らして、店の階段を降り始めた。


「スナック『不知火』?……ふふ、あの女らしいわね」


 女は独り言のように呟くと、さっさと二人を追い越して、店のドアを乱暴に開け放った。

 

 夜も更け始め、既に活気づいていた店内の客は、荒々しくドアを開けて入ってきた美女を一斉に振り返った。


「八代アカリに会いに来たわよ!」


 女は店の奥に向かって大声で叫んだ。

 黒いロングコートを翻しながら、呆気に取られる客を蹴散らして、ズカズカとカウンターまで進んだ。


「お客さん、困ります!」


 カウンターの中に平気で入ろうとする女を、中にいたマサが体でくいとめる。


「あの女を出しなさいよ!」


 マサの大きな体に阻まれ、女は巻き髪を振り乱しながら、ヒステリックに声を上げた。


「一体、何の騒ぎなの?」


 その時、店の奥から騒動に気付いたアカリが出てきた。

 今日も紡ぎの着物に、黒々とした髪を鼈甲べっこうのかんざし一本で、綺麗にアップにまとめている。

 一方の女の方は、マサと揉み合った際にはだけた黒いコートの中からは、薄手で胸が大胆に開いたデザインのワンピースが覗いている。

 対照的な姿の二人の女が、カウンターを挟んで対峙した。


「……美華さん」

 アカリは驚きを隠しきれない声で呟いた。対する美華は、アカリに向かって、好戦的な眼差しを投げかけながら言った。


「今日は忠告に来たのよ」

「忠告?」


 アカリの眉がピクリと吊り上る。そんなアカリの反応を見て、美華はカウンターに肘を付き、身を乗り出してアカリに顔を寄せた。


「前にも言ったはずよ。あんたが私たちを追っかけて、この街に住み着いた時。二度と、私の手から、隆志を奪うことは許さないって」

「奪う?急に一体、何を言い出すのよ」

 

 言った瞬間、美華からアカリに向かって鋭い平手打ちが飛んだ。

「アカリさんっ!!」


 マサがすぐさまカウンターを飛び出して、美華に掴みかかる。店中が騒然となった。


「やめなさいっ!」


 アカリの一喝で、マサの動きが止まった。店中静まり返り、この美しい女二人の睨み合いの行く末を見守っている。


「すっとぼけるんじゃないわよ。あの男がついさっき、家に来たのよ。偉そうに、隆志の「将来」について、一席ぶっていったわ。あんたがけしかけたんでしょ?隆志もこの店に通ってるの、随分前から知ったたのよ。今まで目をつぶってやってたけど、出すぎた真似をするなら、ただじゃおかないわ」


 興奮してまくしたてる美華に対して、アカリは冷静だった。


「叩かれた上に濡れ衣まで着せられちゃ、割りに合わないわね。私はあんたの息子をたぶらかして通わせてるわけじゃないわ。あの子ももう十八よ。一人で何でも判断できる年だわ」

「はっ!偉そうなこと言わないでよ。母親でも気取るつもり?自分は、子どもを持てない身体だか……」


 美華が言い終わらないうちに、前方から美華の頬を張ったのは、マサだった。


 美華は頬を張られた勢いで、カウンターに残るグラスを全て床に落としながら、後方へ倒れこんだ。


「アカリさんを侮辱したら、この俺が許さない!」

「マサッ!」


 アカリが殴ったばかりで熱を持つマサの拳に軽く手を乗せて、首を横に振る。「落ち着け」と無言でたしなめていた。


「……ご立派なナイトをお持ちですこと」


 乱れた髪の間から、ギラギラ光る目で睨み付けると、美華は二人から視線を外さないまま立ち上がった。

 こぼれた酒が、カウンターから細い滝のようになって床を濡らし、氷や割れたグラスの破片をキラキラと輝かせていた。


「招かれざる客は、退散するわ」


 美香は吐き捨てるようにそう言うと、アカリに背を向け歩き出した。

 帰る途中で、テーブルに残っていた他の客の飲みかけのブランデーを奪って、一気にあおる。

 白い手の甲で扇情的に濡れた唇を拭うと、美華はクルリと振り返り、アカリに向かって指を突きつけた。


「あんたがこの街に住むのを黙って許してやったのも、あんたはあんたの親が私にしたことを何も知らなかったから。でも、私は忘れないわよ。再び隆志を奪おうとしたら、殺してやる」


 美華は低い声でそう呟くと、ドアの方へ歩き出した。


「不可侵の約束を、忘れないでね」


 来た時と同様、乱暴に閉められるドアの間で黒いコートが翻り、一陣の風のように現れた、気性の激しい美女の幕引きを彩った。



「まったく、何て女だよ」


 マサが怒りに頬を紅潮させたまま言った。アカリの手は、まだマサの拳の上に乗せられている。


「……仕方ないのよ」


 アカリは濡れた床に視線を落としたまま言った。


「不可侵の約束って何なんです?」


 マサはアカリが割れたグラスの破片で怪我をしないように、アカリを後方へ下がらせながら尋ねた。


「私が、高校を卒業してこの街に住み始めたとき、今後一切、お互いに干渉しないっていう約束よ。あの人は、私を異常に警戒していたから」

「どうして?だって、アカリさんは、仮にも隆志の叔母だろ?」

「だから、よ」


 アカリは、乱れた黒髪を耳にかけながら呟いた。


「また、隆志君を奪われるのが怖かったのよ」

「また?」


 台布巾を手にしたマサが振り返る。


「……ウチの両親は隆志君がまだ幼い時に、一度美華さんの手から、隆志君をさらったことがあるの」


 カウンターに残った琥珀色の液体が、一筋、細い線を描いて床に落ちた。



    ※



 学生鞄の他に、布製の小さなサイドバックを手に提げて、理穂子は自宅の玄関を開けた。

 扉を開けた途端に香る、母のお手製のビーフシチューの香り。団欒を絵に描いて切り取ったような我が家には、似合いの香りだと、理穂子は少し自嘲気味に笑った。

 その時、玄関に並べられた男物の革靴を見て、理穂子の心臓は、ザワッと波打った。

 

 あの男が、来ている……


 理穂子は慌てて靴を脱ぐと、一目散に自室目指して階段を駆け上がった。

 理穂子の帰宅に気付いた母親が、階下から理穂子を呼ぶ。


「理穂ちゃん、帰ったの? 手を洗ってきて。お夕食にするわよ」


 理穂子は母の声を無視して、自室に勢いよく駆け込むと、急いでドアの鍵をかけた。階下から理穂子を呼ぶ母の声は、より一層強くなる。


「理穂ちゃん? 聞こえてるの? ご挨拶もしないで、失礼でしょう」

「いいんですよ、お母さん。理穂ちゃんも高校生だもの。恥ずかしい年頃なんですよ。僕にもそんな時期がありましたから」


 甘く優しげな声で、母親と話す声が聞こえる。

 理穂子は耳を塞いだ。


「じゃあ、一足先に、僕らだけで夕食にしましょうか? 理穂ちゃんには、後で僕が持って行きますから」


 しばらくすると、テーブルの椅子を引く音、カチャカチャと食器やスプーンの擦れる音が聞こえてきた。

 理穂子は暗いままの部屋でうずくまり、ただひたすら、音が聞こえなくなるのを待った。

 やがて、食事が終わると、母親が調理場で洗い物をする水音が聞こえてきた。

 理穂子はまだ階下に神経を集中させながら、暗闇の中で息を潜めていた。

 

 するとその時、軋んだ音をさせながら、階段を上がってくる気配があった。理穂子は飛び上がり、かけてあるはずの鍵を、もう一度念入りに調べなおした。

 足音は理穂子の部屋の前で止まり、低いノックの音が聞こえた。


「理穂ちゃん? 夕食を持ってきたよ」


 理穂子はドアから後ずさりして、耳を塞いでかぶりを振った。


「食欲ないの?お母さんも心配しているよ。ここを開けてくれない?」


 甘い声とは裏腹に、理穂子の鼓動はザワザワ波打つのを止めず、歯がガチガチと音をたてる。


「……仕方ないね。じゃあ、ここに置いておくから、気が向いたら食べてね」


 その言葉を最後に、足音は再び回れ右をして、階下へ降りて行った。

 しばらく息を詰めていた理穂子だったが、恐る恐るドアの方へ近づいた。


「あ、そうそう!」


 ドアノブに手をかけたところだった理穂子は、ビクッとしてその手を離した。

 もういなくなったとばかり思っていた相手は、薄いドア一枚隔てたところにまだ潜んでいた。


「さっき、階段のところで、赤い毛糸の落し物を拾ったよ。理穂ちゃんのかい?」


 その言葉に、理穂子は血の気が引く思いがして、急いで学生鞄の横に放り出していた、小さなサイドバックの中身をかき回した。



 ない――

 編みかけの、大切な赤い毛糸の手袋……


「……返して」


 理穂子は震える声で、ドアの向こうに呼びかけた。

 ドアの向こうの人物は、ふふっと軽く笑いながら、からかうように言った。


「もちろんだよ。夕食と一緒にここへ置いておくから、取るといい」


 それだけ言うと、男は少し大げさな足音をさせながら、階段を降りていった。


 ドアに耳をつけて、男の気配が完全になくなったのを確認すると、理穂子は恐る恐る鍵を回した。

 細く開けたドアの隙間から、ビーフシチューの膳の横に、ちょこんと乗った赤い毛糸の手袋を見つけた。

 ホッと息をついて、手を伸ばす。

 

 その時――理穂子の細い手首を、横から出てきた手が強い力で掴んで引き寄せた。


「キャッ!!」


 理穂子は部屋の外へ倒れこむ形になり、バランスを崩した体勢のまま、腕を引いた人物の胸の中に抱き寄せられた。


「理穂ちゃん、二回目! ひっかかったね」


 声の人物は楽しげに、勝ち誇ったように理穂子を抱く腕に力を込める。


「足音忍ばせるのは、僕の得意技だよ。全然、気がつかなかっただろう?」

「……い、いや!」


 もがく理穂子を悠々と抱きとめたまま、低い声で耳元に囁く。


「その手編みの手袋、誰にあげるの?妬けるなぁ。僕には編んでくれないくせに」

「離してッ!!」


 理穂子は渾身の力で相手を突き飛ばすと、毛糸の手袋を掴んで、自分の部屋のドアを閉めた。震える手で急いで鍵をかける。


「……ふふ、随分嫌われたもんだね」


 締め出された男は、不敵な笑いを残して、階下へ消えた。

 

 理穂子は胸を押さえて、その場にうずくまった。

 荒い息をつきながら、まだ編みかけの小さな手袋を抱きしめる。

 智之に頼んで、こっそり隆志の手のサイズを調べてもらってから、編み始めた手袋だった。

 隆志のアカギレだらけの手を思い出したら、胸が苦しくなり、思わず涙がこみ上げてきた。


「……島貫君」

 

 暗闇の中で、一人小さく呟く理穂子の涙が、編みかけの赤い手袋に吸い込まれていった。


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